ファスト・フードの技術革新 大量生産方式及びフランチャイズ・システム 劉暁穎(2009年度 修士論文)
<要旨>
ファスト・フードの技術革新
―大量生産方式及びフランチャイズ・システム―
Fast Food Inovation
―Mass Production System and Franchise System―
指導教授 亀川 雅人 教授
立教大学大学院ビジネスデザイン研究科ビジネスデザイン専攻
学生番号 08VG096T
劉 暁穎
LIU,XIAOYING
(1) 研究の背景と概要
中国において内需拡大に必要な卸売業、小売業、外食業、などの第3次産業における近代的な研究が始まっている。筆者は日本の進んだ外食産業を学び、中国の内需拡大に役に立てることを目的に研究を行った。当研究では外食産業を生み出した技術革新を中心に論じた。
外食産業の世界における全体売上高順上位10社はファスト・フードである。ランキング1位のマクドナルドは店舗数31,967店舗もあり、最も少ないタコベル社でも4,833店舗となっている。それに対して、ファミリー・レストランやカジュアル・レストランなどの客席を中心とした業態の店舗数は最大でも2,000店舗に届いていない。
ファスト・フード業態の規模が大きい理由の一つに、海外進出が挙げられる。トップ企業マクドナルドの場合、過半数の店舗が海外110カ国に進出している。また、売上高トップ3社のフランチャイズ店舗比率は合計で86%であり、売上トップ100社の合計フランチャイズ比率63%よりははるかに高い。ファスト・フード業は店舗数、売上規模とも他の外食業態を大きく引き離しており、他の外食業態とは異なった産業ではないかと思われる。
幾つかの文献は「マクドナルド兄弟はフォード車の大量生産方式を学び、低価格大量販売システムを作り上げ、マクドナルド兄弟の事業を買収しマクドナルドコーポレーションを創業したレイ・クロックはフランチャイズ・システムを完成して現在の地位を確保した。」と述べている。
フランチャイズ・システムについて述べた先行研究では、フランチャイズ・システムを作り上げたのは米国であり、外食企業がフランチャイズ・システムを取り入れる前に、農機具やミシン、そして自動車産業、ガソリンスタンドの業界でフランチャイズ・システムを取り入れることが分かった。これらの企業はフランチャイズ・システムに取り込んだ理由は、大量生産した製品を販売する方式を模索することであったと述べている。
第2次産業と第3次産業である外食産業は一見何の関連性もないように思われる。しかし、単なる飲食店から外食産業へと産業化していった過程で、ファスト・フードは従来の飲食業の進化型ではなく、産業化を成し遂げる上で、他産業からの技術拡散や技術革新などにより新しいビジネスモデルを構築したのではないかと思われる。そこで、筆者は大量生産方式とフランチャイズ・システムがファスト・フード業の技術革新を生んだのだという仮説を立てて研究を進めた。
(2) 研究方法
まず、日本の外食産業が学んだ米国外食産業を研究する。米国外食産業の歴史、大量生産という技術革新、販売方式としてのフランチャイズ・システムという3つの視点から文献を探し、3つの分野別の歴史をまとめる。各分野はどのように影響しあって、構築してきたか、どのようなきっかけでファスト・フードを誕生させ、ファスト・フードの技術革新となったのかを明らかにする。
(3) 検証の結果
研究の結果、大量生産とフランチャイズ・システムは密接な関係があり、そこに関わってくる3社、シンガー社、マコーミック社、フォード社の間に技術拡散があることが分かった。第2次産業の製造業が取り組んだ大量生産方式とフランチャイズ・システムの取組が、技術拡散し、第3次産業のファスト・フード(外食産業)を生んだ。その技術拡散は技術者や企業の他産業への移籍、研究書物による知識の公布、等によって行われた。もっとも良い事例はGM最高級車のキャディラックを創立したヘンリー・リーランドである。東部の工廠方式を身につけ、コルト工場などの小火器メーカーで働いた後、ミシン製造会社を経て、車部品製造会社、自動車製造のオールズモビル、キャデラック(後にGMに買収)、リンカーン(後にフォードに買収)を設立している。
(4) 結論
技術の拡散による技術の収斂は、技術革新と同様な効果があると考えられる。自動車産業もファスト・フード(外食産業)は特別な発明をしていたわけではないのに、大成功したのは、技術以外の要素が大きいと考えられる。
企業は創業時には特許や独特の発想による技術革新に近い製造や販売方式が必要である。しかし、その創業時の勢いを維持するには、企業のマネージメントが必要だと思われる。
大量生産方式を完成させて自動車の価格を半分にしたフォード社等の自動車産業は米国経済の急成長と共に成長したが、新しいマーケットへの進出を怠り低価格の重要性も忘れ売上を上げるために高額車の販売に傾注するという失敗を犯し、今でも苦戦をしている。
しかし、フォード社の大量生産方式とフランチャイズ・システムの技術をヒントに誕生したマクドナルド社は、低価格という基本を守りながらも海外新興国への進出を実施しリーマンショック後でも健在である。技術革新を引き起こし、それを持続させることの重要性を明らかにしている。
(5) 今後の課題
今回の研究では、米国外食産業の歴史、大量生産方式、フランチャイズ・システム、に多大な時間を配分してしまったため、個々の外食産業の技術革新が他産業からどのようにして影響を受けたかまでの詳細な分析に踏み込めなかった。今後は、日米中の外食産業の国際間技術移転や技術革新に焦点を当て、その実態を明らかにしていきたい。また、現在中国では内需拡大の一つの技術としてフランチャイズ・システムに焦点を当てて、法規制や法律の確立を図っているので、そのフランチャイズ・システムの在り方、法規制における日米中の違いを分析し、中国におけるフランチャイズ・システムの健全な発展に役立てたいと思っている。
2009年度 修士論文
ファスト・フードの技術革新
―大量生産方式及びフランチャイズ・システム―
Fast Food Inovation
―Mass Production System and Franchise System―
指導教授 亀川 雅人 教授
立教大学大学院ビジネスデザイン研究科ビジネスデザイン専攻
学生番号 08VG096T
劉 暁穎
LIU,XIAOYING
目 次
序章 はじめ 1
(1)研究の背景と目的 1
(2)本研究の意義 2
(3)本研究の方法 3
第1章 米国外食産業の歴史 4
(1)米国レストランの起源 4
(2)米国外食産業の発展 7
①西部地域への人口移動による外食への影響 7
②高級レストランの繁栄と衰退 8
③移民による食生活の多様化 12
④自動車の普及による外食への影響 13
⑤ロードサイドレストランの誕生 14
⑥セルフ・サービスの誕生 18
(3)ファスト・フード時代の到来 19
①ファスト・フードの誕生 19
②ファスト・フードの勃興 23
(4)近代の米国外食業界現状(1980~1994年) 37
第2章 外食産業に大きな影響を与えた米国大量生産方式 40
(1)大量生産方式の必要性 40
(2)米国工廠方式の技術拡散 41
(3)フォードの勃興による大量生産方式の確立 44
第3章 外食産業の成長を支えるフランチャイズ・システム 51
(1)フランチャイズ・システムの起源 51
(2)米国におけるフランチャイジングの発展 52
①フランチャイズ・システムにおける時代的背景 52
②マコーミック社の販売組織化三段階 53
③シンガー社の販売組織三段階 55
④シンガー社とマコーミック社の問題 57
(3)フランチャイズ・システムの確立 58
①自動車産業におけるフランチャイズ・システムの3段階 61
②現代的なフランチャイズ・システム 64
第4章 ファスト・フードを生み出した社会的背景と技術革新 66
(1)ファスト・フードを生み出した社会的背景 66
①人口動態 66
②車の普及率、高速道路 66
③所得の変化による外食が必要性や接待から、レジャーへ 67
④電気製品の普及 コックレス 67
⑤米国人の食生活の変化、禁酒法、アイスクリーム、ソーダ・ファウンテン 67
(2)ファスト・フードの技術革新 68
①最初のチェーンレストランの経営と基準を確立したHarvey House 68
②ドライブイン業態 69
③セルフサービス業態の誕生 70
④ファスト・フードのメニュー 71
⑤ファスト・フードの誕生 72
⑥低価格化の実現(大量生産方式の影響) 72
⑦フランチャイズ方式が急速な店舗展開を実現した 73
⑧1955年ファスト・フード3大企業の誕生 74
終章 まとめ 80
(1)結論 80
(2)今後の課題 81
【参考文献】 83
(1)外国文献 83
(2)洋雑誌(論文) 83
(3)洋書(訳本) 83
(4)和文献 84
【参考HP】 85
序章 はじめ
(1)研究の背景と目的
この世界的な経済危機の中で、中国は従来の輸出国から内需拡大による世界経済の牽引役になることを模索している。中国は従来の輸出向け工業製品の製造ではノウハウを構築しつつあるが、内需拡大に必要な卸売業、小売業、外食業、などの第3次産業における近代的な研究は、まだ緒に就いたばかりである。そこで筆者は、日本の進んだ外食産業を学び、故郷中国の内需拡大に役に立てたいと研究をすることにした。
日本の外食産業を研究するにあたって、まず、日本の外食産業が学んだ米国外食産業を研究した。米国のR&I誌の2009年7月15日号「TOP400特集米国外食産業の売上ランキング」(世界全体での売上)によると、売上高順上位10社のすべてがファスト・フードである。ランキング1位のマクドナルド社は、店舗数31,967店舗を数え、最も少ないタコベル社でも4,833店舗となっている。それに対して、ファミリー・レストランやカジュアル・レストランなどの客席を中心とした業態の店舗数は、最大でも2,000店舗に届いていない。
米国外食産業におけるファスト・フード業態の規模が大きい理由の一つに海外進出があげられる。トップ企業であるマクドナルドの場合、過半数の店舗が海外110カ国に進出している。ファスト・フード業は店舗数、売上規模とも他の外食業態を大きく引き離しており、かつ、世界各地に店舗展開を行っている。売上高と店舗数という観点から見ていくと、ファスト・フードのようにテイクアウトによる効率の高いセルフサービス業態と、客席で飲食をするのが中心の、テーブルサービス業態に2分できることが分かる。実はファスト・フードとその他のテーブル・サービス・レストランは異なった産業ではないかと思われる。
米国世界売上トップのマクドナルド社についての文献を幾つか見てみると、マクドナルドの低価格大量販売システムを作り上げるうえで、フォード車の大量生産方式を学んだことが分かった。マクドナルド社のもう一つの成功要因は、マクドナルドの低価格大量販売システムを確立したマクドナルド兄弟から、フランチャイズ権を購入した後フランチャイズ権販売に乗り出し、マクドナルドコーポレーションを造ったレイ・クロックの存在がある。
フラドチキンのKFC社はハンバーガー・チェーンの陰に隠れて目立たないが、ハンバーガー・チェーンと異なり競争相手が極端に少ないことが分かる。その大きな要因はチキンの圧力釜調理の製造特許を取得したことが挙げられる。従来、製造方式の特許は工業製品製造業に限られていたが、その常識を打ち破って、圧力調理方式で特許を取ったことが競合の追随を許さなかった。また、KFCの大きな成長は、後のケンタッキー州の州知事となるジョン・ブラウン氏が企業経営に参加し、フランチャイズ方式で急成長させたことも分かった。
R&I誌の2009年7月15日号「TOP400特集米国外食産業の売上ランキング」によると米国ファスト・フードの世界売上高トップ3は、1位マクドナルド社、2位KFC社、3位バーガーキング社となっている。しかも、その3社の創業は1955年と同じ年代だ。
さらに、NRN誌の2009年7月15日号の3社のフランチャイズ比率を調べてみると、米国国内のフランチャイズ店舗比率は合計で86.06%だ。売上トップ100社の合計フランチャイズ比率63.02%よりはるかに高い。
そこで、フランチャイズ・システムについて述べた先行研究を調査したところ、フランチャイズ・システムを作り上げたのは米国であり、外食企業がフランチャイズ・システムを取り入れる前に、農機具やミシン、そして自動車産業、ガソリンスタンドの業界でフランチャイズ・システムを取り入れたことが分かった。それらの企業はフランチャイズ・システムに取り込んだ理由は大量生産した製品を大量販売する方式を模索することであった。
第2次産業と第3次産業である外食産業は一見して、何の関連性もないように思われる。しかし、単なる飲食店から外食産業へと産業化していった過程で、ファスト・フードは従来の飲食業の進化型ではなく、産業化を成し遂げた他産業からの技術拡散や技術革新などにより新しいビジネスモデルを構築したのではないかと仮説を立てた。
(2)本研究の意義
技術革新とは縁のない産業と思われている外食産業にスポットライトを当てて、隠れた技術革新と技術拡散を浮かび上がらすことで、現在停滞している日本外食産業を再度活性化させ、さらにはこのすぐれた産業化の技術革新を他の新興国の経済振興に役立てたいと思っている。
日本は少子化の時代を迎えすべての産業は縮小傾向にある。それを打開する一つの手法が海外への進出であり、これからの経済振興が予測される新興国、特に13億人の人口を抱える中国への進出が行われ出した。また、中国は先進国の製造工場としての役割をもち、製造するほとんどの製品を輸出して外貨を稼いでいたが、リーマンブラザーショック以来、自ら消費をする内需振興に舵を大きく切っている。中国では鉄鋼業や自動車産業は海外企業と提携しノウハウを取得し、現在では海外の企業に負けない規模となっている。しかし、内需振興に必要な消費経済を支える、百貨店やGSM、食品スーパー、コンビニ、外食産業、サービス産業、の分野ではまだ、欧米先進国に立ち遅れており、海外からの技術導入の必要性や、自国での産業振興が必要となっている。それに伴い、小売業や外食産業、サービス産業が大きく伸びる手段としてのチェーン化、フランチャイズ・チェーン化に注目し、法改正を実施し海外企業の進出を促すようになっている。当研究は、その中国の内需拡大に必要な小売業、外食産業、サービス産業分野の一つ、外食産業のチェーン化に大きく貢献するものである。
現在の中国における海外外食企業の規模を見てみると、中国マクドナルドは1,000店舗、中国KFCは2,700店舗とKFCの売上規模はマクドナルドの約3倍の規模となっている。日本KFCの店舗は小型店で、マクドナルドよりも立地が悪いが、中国KFCはマクドナルドよりも立地の良い場所に、より大型の店舗展開をして大成功している。
今後、中国は内需拡大のために、中国独自の外食企業によるチェーン展開、フランチャイズ・チェーン展開を行わなくてはいけない。世界で展開しているファスト・フード業界、特に3大大手のマクドナルド、KFC、バーガーキング、の成り立ちを研究することは、今後の中国外食産業に大いに貢献することと思われる。
また、中国では従来、第2次産業に重きを置き大学や大学院では、それらの学問を研究する例が多く、第3次産業を学術的に研究する学者は少ない。筆者は、日本で外食産業を通じて第3次産業を学術的に研究し、中国に帰り教鞭についてその分野の研究を充実し、中国経済に貢献したい。
(3)本研究の方法
本研究は米国外食産業の起源からファスト・フード誕生までの歴史、ファスト・フードの成長に大きな影響を与えた大量生産方式、大量生産した製品を大量に販売するためのフランチャイズ・システムという3つの視点である。
それぞれの分野で文献を探し、3つの分野別の歴史をまとめる。大量生産技術と販売方式の一つであるフランチャイズ・システムをどのように構築していったか、またどのようなきっかけでファスト・フードを誕生させたかを検証し、そして、どのように影響しあって、ファスト・フードの技術革新となったのかを見だす。
第1章 米国外食産業の歴史
(1)米国レストランの起源
本論文のテーマの「ファスト・フードのイノベーション」を検証する上で、米国よりも古い歴史を持っている欧州で、なぜファスト・フード業態が発生せず、歴史の浅い米国でファスト・フードがなぜ発生したのだろうかという疑問が生じた。そこで、どのように米国のレストランが進化していったかを詳細に検証することにした。
欧州、英国、フランス、ドイツ、等の国は米国に比べはるかに狭いものだった。そこで生活する人々は住宅に近い場所に働きに行くことが多く、伝統的に昼時には2‾3時間の休憩をとり、家で食事をした後には休憩をとるのが常だった。欧州の朝食はパンとコーヒー等の軽い食事(コンティネンタル・ブレックファーストと呼ばれる)であり、昼食が1日で最も量が多い温かい料理を食べる。夜は、昼食の残りものや保存性の高いハムやソーセージ、チーズとパンという冷たい食事が一般的である。
しかし、移民が造り上げた米国は開拓のために遠くまで単身で旅をしたり、仕事に行く必要があり、昼食で家に食べに帰る時間がなかった。それが、米国でレストランが発達し、後に革新的なファスト・フードが出来上がった原動力である。その過程を検証するためにまず、米国のレストランの歴史を移民時代から詳細に分析する。
1629年に米国に英国やドイツの移民が上陸し、食事のニーズがおきてレストランが誕生した。レストランの起源は人々が旅をする際の食事の提供として誕生するからで、この年バージニア州に2軒のビヤホールが存在した。
1637年には清教徒が2軒のアルコール提供店の開店許可を出す。
1648年にニューアムステルダムにブランデー販売店、たばこ販売店、ビアホールが誕生し、1600年代の終わりまでにボストンには12軒ほどのタバーン(アルコールと飲食を提供する店)が開店していた。この当時のレストランは人々が集まってお酒を飲むのが主体であった。しかし、米国を造った清教徒は厳格な戒律を持っており、法制化などでたびたびお酒消費を抑えようとしていた。(後に宗教上の理由等から全国的な禁酒法となった。現在でも米国では州によっては日曜日にアルコールの提供は販売を禁止している。レストランで種類を販売するにはリカーライセンスというライセンスを取得しなければならない)この当時のタバーンは街の有力者によって、街を訪問する人を歓待する目的で所有運営されていた。
1642年にニューアムステルダムの州知事は友人を接待する目的で自宅にタバーンを開設し、後に、人に貸しアルコールを販売する店舗となった。当時のレストランは簡単な食事を提供するだけであり、客はあまり選択の余地がなかった。多くの料理は暖炉にしつらえた鍋で煮込むものであり、人々は食事よりもお酒を飲むことを目的としており、料理にはあまり期待はしていなかった。1700年代の終わりには禁酒法的な規制が段々緩み、15歳以上の米国人は平均、年間、6ガロン(1ガロンは3.785リットル)のアルコールを飲むようになっていた。アルコールの多くはビールとサイダー(リンゴの発泡酒)であるが、場合によっては蒸留酒やワインも消費されていた。
1600年代の終わりには英国で流行していたコーヒーとチョコレートを提供するスタイルが米国に上陸した(その形態の店舗は1698年には英国に2,000店舗存在していた)。そのコーヒーとケーキを販売する形態の店舗は従来のゴロツキが飲んだくれているようなタバーンとは一線を画した存在となった。
1670年にボストンのドロシー・ジョーンズDorothy Jonesはコーヒーとチョ子レートを販売する店舗を開店した。そして同年にニューヨーク・マーチャンツ・コーヒー・ハウスNew York Merchants Coffee Houseが開店した。この形態の店舗はアルコールや料理も提供したが、上流階級の紳士に従来のタバーンよりも人気が出るようになった。
1794年にニューヨークのウオールストリートにトティン・コーヒーハウスTotine Coffehouseが開店した。店には水洗トイレ、風呂、喫茶室、メインダイニングルーム、マホガニー製の豪華な家具、クリスタルのシャンデリア、の豪華な内装であった。このコーヒーハウスCoffeehouseはタバーンよりも人気が出て1700年代には一般的になり全米に広がっていった。
1794年にフランスの有名な調理人が滞米し、料理の本を執筆したりしてフランス料理を普及させた。
1700年代には米国を旅行するのは楽になってきた。1771年には高速鉄道がニューヨークとフィラデルフィアを1日半で結ぶまでになった。旅行者は20シリングを支払って、宿泊と食事を手に入れた。この時代に最も成功したのはニューヨークのサムエル・フランセスSamuel Frauncesで、1763年に3.5階建てのミーティング所を造り、ニューヨークを経由して旅をする人に人気を呼んだ。店舗にはビアホール、ゲームルーム、70席の客席、5つの寝室、とエレガントな内装を備えた。フランセスFrauncesは米国で初めて、ケータリングサービスや持ち帰りサービスを始めた。彼は大統領のジョージ・ワシントンにも料理を届けていた。このフランセス・タバーンFraunces Tavernは規模が小さくなったが現在も残っている。また、各都市の拡張に伴い労働者が移住してきて、彼らの宿泊するボーディングハウスBoardinghouseが増加していった。ボーディングハウスには宿泊施設だけでなく、レストランも備えていた。
1799年にはフィラデルフィアニ203軒のボーディングハウスが存在した 。
1827年にスイス出身の船長のジョバンニ・デルモニコGiovanni Del-Monico(後に米国名ジョー・デルモニコJohe Delmonico)は米国に渡ったが、船乗りの仕事に疲れ、ニューヨークのバッテリー港に同僚であった船乗りを対象にした店舗を開店した。その成功ぶりをみて、彼はスイスに帰国し、お菓子職人だった長兄のピエトロPietroを説得しヨーロッパ風のお菓子やアイスクリーム、コーヒー、ワインを提供する店を1827年に開店した。(1815年にはフランス人が同様の店をブロードウエーに開店していたが)その店は大繁盛し、次に店舗の横にフランス・パリのレストランのようにフランス人シェフを使って本格的なレストランをビジネスマンに提供することにした。1831年に開店した店舗は白いリネンと磁器のお皿を使い、昼から暖かい料理を出すようにした。その店舗は大成功し、2号店を1832に開店した。その後、1号店が1835年に火事で焼失したが、1837年に再建した。店舗は本格的なフランス料理を10種類以上も提供した。この店舗は米国で最初のレストランではないが、家の外で食べる食事に本格的な料理を提供するファイン・ダイニング(高級レストラン)という初めてのカテゴリーである。1832年以降の米国大統領の全員、高名なミュージシャンや作家、など必ず同店を訪問するニューヨーク一のファイン・ダイニングの店となり、最盛期の1870年代には4店舗を経営していた。デルモニコDelmonico’sの他に、パーム・ガーデンPalm Garden,ジェントルマンズ・エリザベティアン・カフェGentlemen’s Elizabethan Caf?、レイディース・レストランLadies’ Restaurantの4店舗だ。
1800年~1825年には人口が増加し、レストランの繁盛に影響を与える。1800年には東海岸の大都市ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、バルティモアー、チャールストンの人口は20万人にすぎなかった。しかし、人口は急増し、その中心ニューヨークの1825年の人口は16万人になっていた。ニューヨークの人口が急成長したのは、港と株のウオールストリートがあったためである。
1830年から1860年の間の南北戦争が開始するまでの間の都市に住む人々の、外食はそう豪華なものではなかった。しかし、徐々に変化が生じ始め料理の味とサービスは変わり始めた。コーヒーハウスは消え去り始め、タバーンはサルーンに変わり始めた。ニューヨークのキャナル・ストリートではオイスター・バーの人気が出始めた。レストランは徐々に変化を見せるようになった。殆どの料理方法はフライで火が通り過ぎていたが、安くて量が多かった。また、レストランは綺麗(衛生的)になってきた。東海岸の他に人口が多かったのは元フランス領のニューオリンズで、1840年には全米で4番目の人口になった。フランス人、黒人(綿農園の奴隷)、スペイン人、インディアン、クレオール人、等が混在し、独特の食文化を築いていた。ミシシピー川を利用してメキシコ湾の牡蠣等の新鮮な魚介類とスパイシーなクレオール料理のレストランが誕生した。1840年にAntoine AlciatoreがAntoineを開店し、現在でも経営をしている。
(2)米国外食産業の発展
①西部地域への人口移動による外食への影響
1850年代にはヨーロッパからの移民はやがて東部地区から新しい開発地区のロッキーマウンテンを超えて西部、オレゴン州やカリフォルニア州に徒歩や場所で移住を始めた。その移住に伴ってレストランの必要性も高まり食事を提供するカントリー・インCountry Innが誕生した。1850年頃のカントリー・インCountry Inで提供する食事は農家で食べるコーンブレッドや保存食のベーコン等の質素なものだった。
1860年代に鉱山の発見に伴い町が出来上がり、ネバダ州ヴァージニアVirginiaなどでは鉱山で働く人々を対象に、小売店が38店舗、劇場が1軒、ホテルが8件、お酒を主に提供するサルーンSaloonが25店あった。また、コロラド州リードビルLeadvilleのレストランはニューヨークの高級レストラン、デルモニコDelmonicoからシェフを招くなど、料理の品質にもこだわるようになってきた。
1869年に当初は東部から西部への移動手段が馬車で日数が必要であったが、大陸横断鉄道開通に伴い東部から西部への移動はたやすくなった。当初の鉄道は座るだけのものであったがやがて、寝台列車や食堂車も造られるようになり、食堂車ではニューヨークのデルモニコDelmonicoで提供するような高級な食事を提供するようになった。しかしこのような高級な列車は東部中心に運営されているだけだった。西部を旅行する列車には食堂車はなく、途中のさびれた町に停車し短時間でひどい食事を済ませなければならなかった。
1887年に鉄道沿いの駅に初めてのチェーンレストランハーベー・ハウスHarvey Houseが開店した。1835年イギリス生まれのフレドリック・ヘンリー・ハーベイFrederick Henry Harveyは15歳で米国に移民し、7年後にセントルイスにカフェを開店したが南北戦争時代に共同経営者が金を持ち去って失踪したため閉店に追い込まれた。その後、色々な職業に就き1875年にカンサス州のウオレスWallace、コロラド州のヒューゴHugoなどにカフェを開店し成功、その後、カンサス・パシフィック鉄道沿いにカフェを展開始めた。その後、サンタフェ鉄道と共同で沿線上に店舗展開を開始する。ハーベーHarveyは当時の鉄道沿いのひどい宿泊施設や食事により子供2名を失っただけでなく、本人も健康上も問題も抱えた。その経験から、提供する食事や宿泊施設の向上を図ることにした。そして、1887年にはアチソンAtchison、トプカTopeka、サンタフェSanta Fe鉄道の12000マイルの沿線上100マイルごとに、ニューヨークやシカゴのホテルやレストランと同じレベルの品質の高いハーベー・ハウスHarvey House店舗を展開していった。1880年のコース料理はリーズナブルな価格の75セントで、内容は、生ガキ、ウミガメ、ローストビーフ、オリーブ、チーズ、ペイストリー、アイスクリーム、ケーキ、から選択する。朝食は、ステーキ、卵、ハッシュブラウン、ホットケーキ、アップルパイ、コーヒーで25セントであった。停車する駅ごとのレストランで同じ食事が出ないように変え、同じレストランも4日毎にメニューを変更して顧客が飽きないような工夫を凝らした。ハーベーはどこのレストランも綺麗なナプキンやテーブルクロス、食器類を用意し、食材の供給業者も吟味し、場合によっては農園や農場を自社で運営し、新鮮な乳製品などを店舗で使用できるようにした。品質の統一の面ではカミサリー(食材の集中加工センター)を本部管理の元に設置し、本部が造ったメニューとレシピーに基づき、各店舗に鉄道列車を使い配送した。ハーベーのレストラン経営は厳しいもので、顧客にもジャケットとネクタイの着用を要求し、従業員もハーベーの基準を守らなくはならなかった。各店舗を抜き打ちにチェックを行い、基準を守らない従業員は容赦なく解雇された。また、品質だけでなく、サービスの向上も務め、ハーベー・ガールズHarvey Girlsと呼ばれる女性ウエイトレスを大量に雇い、統一したユニフォームや髪形と共に、丁寧なサービス、清潔さ、を顧客に提供した。最初は男性のウエイターを使っていたが、ある店舗でウエイター同士が喧嘩になるという騒動を引き起こした。その対策として、女性を大規模に募集したのである。ハーベーが1901年2月9日に亡くなった時には、ホテル15軒、レストランを47軒、30の列車食堂、を運営していた。サンタフェ鉄道と遺族は1968年の12月までその運営を継続していた。1930年には大都市のほとんどに進出し、毎年1,500万食を提供していた。しかし、その後1930年代の終わりになると、列車の速度が速くなり、途中の駅で食事をする必要がなくなり、また、恐慌の影響もあり、だんだんハーベーのレストランの売上は低下していった。第2次世界大戦後、鉄道を利用する顧客はさらに減少するようになり、1960年代の終わりには利用客は殆どいなくってしまった。しかし、このハーベーのレストランの運営に対する成功と厳格な管理方法は後のチェーンレストラン、ハワード・ジョンソンやマクドナルド、シャッフェSchrafft’sの模範となった 。
②高級レストランの繁栄と衰退
1865年に南北戦争が終わり、米国は人口急増の時代を迎える。1880年に米国の人口は5000万人、1890年には6300万人、1900年には7600万人、1910年には9200万人となった。この人口増のほとんどはヨーロッパやアジアからの移民である。1900年の大都市に居住する人口は全米の30%と南北戦争終結時の倍になった。
1880年代にニューヨークなどの大都市に居住する富裕層が増加し、高級レストランの時代を迎える。ニューヨークの人口は1880年には200万人となり、デルモニコDelmonico’s,に続いて、レクターRector’s, メイソン・ドリーMaison Doree, ルイス・シェリーLouis Sherry’s, ルチョーLuchou’s, ウオドルフ・アストリアWaldorf-Astoria等が開店した。1848年にはデルモニコDelmonico’sしかなかったが、1900年にはパリの高級レストランにも負けない豪華なレストランが軒を並べるようになった。1880年代のニューヨークには上記のレストランに加え、劇場に来場の顧客を対象に、新しいレストラン群、チャーチルChurchill’s、ムーレイ・ローマン・ガーデンMurray’s Roman Gardens、シャンリーShanley’s、ザ・ニッカーボッカー・グリルThe Knickerbocker Grill、マキシムMaxim’s、等が開店した。そして、ウオドルフ・アストリアWaldorf-Astoria等の高級ホテルが続々と開店し、館内に豪華絢爛な高級レストランを開業するようになった。また、ホテルの執事サービスが行われるようになり、高額所得者のあらゆる要望にこたえるようになった。この時代にニューヨークで最も注目された高級レストランはジョージ・レクターGeroge Rectorの経営する1899年に、5番街とブロードウエーの角に開業したレクターRectorであった。内装や家具はヨーロッパの高級素材を使ったデザインであり、食材も殆どをヨーロッパ各国から輸入した。フォアグラ、トリフ、カスピ海のベルーガ・キャビア、アルジェリアの桃、エジプトの鳩、1個50セントのヨーロッパからの苺、キューバからの高級葉巻、等、金に糸目をつけなかった。顧客は、時の大富豪、政治家、俳優、作家、等であった。この時代のもう一つのブームが、屋上のガーデンレストランであった。カフェ・ブルーバードCaf? Boulevardが1880年に屋上のガーデンレストランを開店し、その後、ホテルのカジノ・イン・ザ・パークCasino In The Parkが屋上ガーデンレストランを開き、ホテルの屋上ガーデンレストランブームとなり、ホフマン・ハウスHoffman House,セント・レジスSt.Regis、ウオドリア・アストリアWaldorf-Astoriaが追随した。ホテル・アスターHotel Astorは1000席の客席と、蔦を這わせた東屋、庭、滝、等を備えた見事なデザインを売り物にした。しかし、このころの高級レストランは社交の場であり、女性が1人で食事をすることができない保守的な存在だった。女性一人で入ろうとしてホテルに断られそれに抗議をする女性が話題になるほどであった。また、この頃には、生牡蠣や伊勢海老(ロブスター)を専門にする巨大な店舗が人気を呼び、冷蔵技術の進歩と冷蔵庫の普及により遠距離の輸送が可能になり、1800年代の終わりには主要な大都市には1店舗存在した。国民一人当たりの生牡蠣消費量を見てみると、英国は120個、フランスは26個に対し、同時期の米国は年間一人当たり生牡蠣を660個消費するようになった。その頃の生牡蠣専門店はシカゴのレクターズ・オイスター・ハウスRector’s Oyster Houseがあり、魚介類、野鳥、サラダ、ハムやベーコンなどの調理済みの肉、チーズ、ワイン、ブランデー、ビール等が提供されていた。魚介類は12種類の生牡蠣、伊勢海老(ロブスター)、ハードシェルクラブ(堅い殻の蟹)、ソフトシェルクラブ(脱皮したての柔らかい渡り蟹)、新鮮な海老、など豊富に提供していた。ニューヨークでは現存している、グランド・セントラル・ターミナル中央駅Grand Central Terminalのセントラル・オイスターバーCentral Oyste Barが1913年に開店し、12種類の生牡蠣を毎日提供していた(現在でもその当時のまま経営をしており、東京にも提携して店舗を構えている)。そして、高級レストランは全米の大都市に続々と開店していった。ボストンのザ・パーク・ハウスThe Park House、セントルイスのプランターズPlanters、デンバーのブラウン・プレイスBrown Places、サンフランシスコのセント・フランシスSt.Francis、シカゴのパーマー・ハウスPalmer House、ワシントンD.C.のハーベーズHarvey’s,フィラデルフィアのグリーンズGreen’s、ルイビルのシールバッハSeelbach、シンシナティのシントンSinton、等だ。シカゴのパーマー・ハウスPalmer Houseは1871年に開店して以来、野生の鶏料理を提供することで、中西部の高級レストランの模範となった。
1896年に開店した、フロリダのホテル・マイアミHotel Miamiはカリブ海の新鮮な魚を売り物にした。デンバーのザ・ウインズThe Winds(西部のレストランで初めて女性一人の入店を認めることで有名になった)は、プレイリードック(北米大草原のリス科の動物)、バッファロー(野牛)、アンテロープ(レイヨウ、野生のウシ科の動物)、鹿、熊の掌、等の珍しい食材を調理して提供した。1875年に開店したサンフランシスコのザ・プレイスThe Placeはオイスター・ロックフェラー(牡蠣の上にほうれん草、エシャロット、バターにハーブをのせ、パン粉を振って、パルメザンチーズをかけた料理。こんな高級な素材を調理して食べるのは、石油王ロックフェラーぐらいしかいないということから命名された)等の斬新な料理を提供した。当時の高級レストランの料理は食事の提供開始時間が決まっており、料理もコース料理で好きな料理を選ぶことができない、アメリカン・プランが普通だったが、フランス風のアラカルト料理のように自分の好きな料理を選んで、好きな時間に食べられるフレンチ・プランという食べ方が1830年代にニューヨークのタマニー・ホール・ホテルTammany Hall Hotelで紹介され、人気を呼び、1870年頃から他の高級レストランに普及しだした。当時の米国高級レストランの料理は現地の食材を使い、ニューヨークの高級レストランのデルモニコDelmonico’sの料理方法を見習っていた。その後、フランス料理の教本を造った、有名なシェフのオーガスト・エスコフィエAuguste Escoffierが1910年にニューヨークの高級ホテル、リッツ・カールトンの調理長となり、その洗練された調理法が米国に紹介され、高級なレストランの料理の基準が出来上がっていった 。
1840年頃から1860年代の南北戦争の時代前までに社会基盤の整備が始まり、高級レストランが洗練された料理を造れるようになった。鋳鉄の調理用ストーブ(上にガスコンロ、下にオーブンが付いているレンジ)、上水道の整備(ニューヨークでは1842年に45マイル離れた貯水場から上水道を引いた)、冷蔵システムの出現、冷蔵システムによりアイスクリームの年間販売を可能に、石臼の荒い小麦粉から鉄製のひき臼によるきめ細かい小麦粉、缶詰食品技術の完成により世界中から食材を供給できる、等である。また、当時は、乳製品は鮮度が重要であり、信頼できる乳製品は少なかったが、鉄道の発達によりニューヨークでは1843年には近郊から新鮮な乳製品を供給されるようになった。コンデンス・ミルクの製造方法が1856年にゲイル・ボーデンGall Bordenによって発明され、1890年までには乳製品の低温加熱殺菌方法が米国全体で取り入れられるようになった。1908年にはニューヨークの25%、ボストンの33%の牛乳は低温加熱殺菌処理されていた。塩漬け保存加工の牛肉や豚がまだ一般的であったが、冷蔵施設の完備により生の牛肉に人気が出てきた。しかし、屠殺場や保管上が不衛生なため問題が発生し、1906年頃には国が衛生基準を定めるようになった。しかし、まだ、野生の鳥や動物の料理に人気があり、それぞれの高級レストランで独特の食材の調理を行っていた 。
1910年頃が全米の大都市における高級レストランの全盛期であった。南北戦争が終わったころからハードリカー(ウイスキーやブランデーなどの蒸留酒)の消費は低下するという社会現象が起きだしたが、ビールなどの弱いアルコール分のお酒は1860年に対して1890年には3倍の消費量になっていた。
1917年に米国が第一次世界大戦に参入し、米国人の若者が徴兵でヨーロッパに派遣され戦うという暗い時代になった。そのため、派手な高級レストランで飲食するという消費形態に冷たい目を向けられるようになった。また、ドイツと対戦したため、ドイツ系の高級レストランに批判を向けるようになった。そのような環境の中で、ニューヨークの高級レストランの元祖のデルモニコDelmonico’sは1916年に閉店し、ルイス・シェリーLouis Sherry’sも3年後に閉店、レクターRector’sも不振状態に陥った。
1919年に高級レストランの全盛期を脅かす禁酒法(Prohibition)が施行された。そして、レクターRector’sは静かに扉を永遠に閉じたのであった。その後の禁酒法の時代は密造酒を販売するもぐり酒場の時代であり、高級レストランが戻るには長い年月が必要であった。 元々米国は戒律の厳しい清教徒が造った国であり、アルコール消費には厳しい目を向けていた。1919年に施行された禁酒法を施行に導いたのはカンサス州女性運動家のキャリー・ネイションCarry Nationが1899年に開始した反対運動である。さらに1893年にはワシントンD.C.ではアンチ・サルーン・リーグAnti・Saloon Leagueが結成され、お酒を飲む場とお酒製造に反対するようになった。この禁酒法を訴える背景には当時の酒場の多くが売春宿も併設しているということだった。1876年のフィラデルフィアでは8000店の合法、非合法の酒場があり、そのうちの半数が売春宿を併設していた。また、アルコール中毒の多くは都市に居住する貧困層であり、彼らはヨーロッパからの移民、特にドイツやユダヤ系の移民が安い賃金で働くことで仕事を奪われていた。また、ヨーロッパはお酒を許容する文化であり、その移民が飲酒を助長している、特にドイツ系の移民がビールの醸造やビアホールの経営をすることに対する反発も発生した。実際にはイタリア系やユダヤ系の飲酒率は米国人よりも低かったのであった。その傾向をさらに悪化させるのが、第1次世界大戦のドイツとの戦いであった。禁酒法の施行により大都市の多くの高級レストランやホテルは閉鎖に追い込まれた。その結果、ギャングによる違法酒場スピークイージーSpeakeasy(ひそひそと話すという意味からつけられた)が誕生するようになる。また、警察や地方公共団体の堕落による汚職が横行し、それらの違法酒場の営業を黙認していた。この禁酒法の結果、当初予測ではかえってお酒の消費量が増えると見込んでいたが、実際は禁酒法施行前の消費量に対して1/2~1/3の消費量と大幅な飲酒量の減少となった。そして、飲酒量が禁酒法施行前のレベルまで戻るのに10年以上かかった。さらに、1人当たりの年間アルコール消費量が1ガロン増加するのにその後30年必要であった。
1933年12月5日に禁酒法は解除となったが、その間に米国の高級レストランは殆どなくなっていた。禁酒法が解除になる前後には大恐慌が米国を襲い、高級レストランにはさらに逆風となった。高級レストランが元に戻るには10年ほどの年月が必要であった。
③移民による食生活の多様化
1683年にドイツからの最初の米国への移民は1683年に始まり、1816年~1817年には大量の移民が発生した。そして、1850年~1860年に第2の移民ブームとなり、当時の米国移民の1/3がドイツからの移民であり、最盛期の1880年には合計で144万人のドイツ移民となった。その後、段々とドイツからの移民は減少していった。しかし、ドイツの移民はドイツ料理を米国に紹介していった。その中でもドイツ人の大きな貢献はビールの醸造であり、ビールをサービスする巨大なアウトドアーのビアホールも開業するようになった。しかし、ドイツ料理店は第1次世界大戦、第2次世界大戦の際に、人気がなくなってしまった。
1880年から910年の間にイタリア移民が増加し、米国の食生活に大きな影響を与え、米国の豊かな食材と融合していった。イタリアからの移民の8割はローマから南の地域、特にシシリーとナポリからが多かった。1880年から1910年の間のイタリア南部からの移民は500万人であり、1880年から1920年の移民の25%はシシリア出身であった。イタリア南部の農家出身者の食生活はヨーロッパの影響よりも、距離的に近い貧しい地中海沿岸の影響を受け、肉類の消費は少ないが、野菜、穀物、フルーツトマトを大量に摂取していた。イタリア・アメリカン料理で多用されるトマトは16世紀にヨーロッパに入ってきており、ヨーロッパではまだ食用に供されていなかった。そしてイタリア南部からの移民の多くはニューヨークのエリス島経由で入国し、東海岸特にニューヨークに居住する人が多かった。貧しいイタリア移民たちは外食よりも家族で料理を作って食べることが多かった。また、ナポリのピザや、ラザニア、ミート・ボール・スパゲティという、イタリアでは食べることのあまりない、食生活をイタリアン・アメリカン料理として食べるようになった。米国最初のピッツエリア(Pizzeriaピザ屋)はニューヨークのリトル・イタリー(イタリア人街)に1905年に開店した、ロンバルディG.Lombardiだ。シカゴスタイルのディープディッシュ・ピザはアイケ・シウオルIke Sewall とリック・リカルドRic Riccardoによって1943年にピッツエリア・ウノUnoが誕生した。そして、第2次世界大戦で南イタリアに進軍した経験のある軍人が帰国すると現地で馴染んだピザを食べたくなり、ピザはファスト・フードとして普及するようになる。しかし、イタリア移民にとってピザは最も貧しい食事であり、段々本格的なレストラン、リストランテに変貌するようになる。また、ピザよりもイタリアンブレッドにサラミや野菜などを挟んだサンドイッチを提供するようになってきた。そして、野菜や穀物が中心の南イタリア料理は、米国人の好みに合わせて、スパゲティであればミートボール・スパゲッティになり、その他子牛のカツレツ、ステーキや、骨付きの豚肉、等、米国に豊富な肉類を付け加えるようになった。また、料理の名前もイタリアとはかけ離れた米国独特のものになっていった。西海岸のサンフランシスコにはイタリア北部出身者が多く住むようになり、禁酒法の時代には闇の飲み屋として経営していた。地下で闇のワインを醸造し、奥さんはキッチンで料理を造って提供する家族的な店だった。禁酒法の解除された後には魚料理を中心としたレストランや、ビジネスを経営するようになった(現在のフィッシャーマン・ウオーフにその名残が残っている)。南部のセントルイスに移住したイタリアンは地元のクレオール料理と融合したレストランを開業するようになった。そして、それらのアメリカ・イタリアン・レストランは安価でボリュームのある料理を提供するので大人気となった。その他、南北戦争以後に移民したヨーロッパやアジアの人々は自国の料理を米国に持ち込んで、豊富なエスニック料理のカテゴリーを形成していった。1882年からのユダヤ人移民もアメリカ人の食生活に大きな影響を与えた。欧州の、ドイツ、ロシア、ルーマニア、ポーランド、ハンガリア、フランス、などから1882年から1924年の間に移民したユダヤ人の数は230万人に上る。ユダヤ人の料理や食物はユダヤ教の司祭が厳密にチェックするコーシャ・フードと呼ばれ、品質が良いという長所があった。しかし、ユダヤ人の移民はレストランを経営することは少なく、食肉業やデリカテッセンというドイツ系ユダヤ人の加工肉製造販売を経営することが多く、デリカテッセンという言葉が英語に定着した。また、加工肉のサンドイッチやホットドックをカウンターで売るビジネスを開始した。
1850年~1882年の間に中国から32万人以上の移民があり、彼らの99%は西海岸に居住した。多くの中国人は鉄道建設や鉱山労働の重労働につき、やがて自らレストランを開業するようになった。また彼らの多くは各都市にチャイナタウンを形成するようになった。
その他、世界からの移民は数多く、その移民たちが米国の多彩な食生活を彩るようになるのである。
④自動車の普及による外食への影響
1930年には米国の州は48になり、人口は1億2,300万人になった(10年間で3,000万人増加)。人口の増加のほとんどは、西部と東部の郊外であった。その当時には、高速の蒸気船、高速鉄道網、飛行機が発達し、従来は数日かかっていた東海岸から西海岸への移動が数時間で可能になるという移動手段の整備が行われていた。そこで人々は、大恐慌により、新しい仕事を新天地に求めるため西部に移動を開始した。
移動手段を見てみると1930年には米国における自動車の所有台数は2,600万台に上っていたことが分かる。そして、自動車のための高速道路が大恐慌の時代にも毎年数千マイルづつ開通していき、自動車の普及は米国人の生活に大きな影響を与えるようになった。
車を所有する人々の楽しみは車に食べ物をたくさん積んで、ピクニックに行くことだった。そして、食べ物が車にない場合には道路沿いのレストランを必要とするようになった。この生活の変化に対応して、高速道路沿いのレストランが続々と開店を始めた。そして、1920年から1930年の間に、ダイナーDiner、カフェテリアCafeteria、飲料スタンドSoda Shop、ランチハウスLuncheonette、オートマットAutomat、バーベキュースタンドBarbecue Stand、ドライブインDrive In、軽飲料スタンドRefreshment Stand、アイスクリームパーラーIce Cream Parlorや、チェーンレストランが続々と誕生した。これらの急速な展開を可能にしたのは続々と開通する高速道路であった。
チェーンレストランが開店するには以下の生活必需品の開発があった。
<1>家電製品
1890年にコーヒーマシン(コーヒー・パーコレーターCoffee Percolator)が開発された。1850年~1882年の間に15年GMの家電部門のフリッジデアリーFrigidaireが冷蔵庫発売を開始した。冷蔵庫の需要はあっという間に高まり、5年後には200社が冷蔵庫の製造に参入した。1931年には冷蔵機能にフレオンガスを使う冷蔵庫がフリッジデアリーFrigidaireにより開発され、食材が腐る恐れはなくなった。また、同時期にクレアレンス・バーゼーClarence Birdseyは野菜の冷凍方法を開発した。1921年にステンレススチール製フォーク・ナイフの開発された。1924年に自動トースターが開発された。1927年にステンレススチール食器が開発された。1931年に電動ミキサーの開発。このように食生活の面で、自動化や高速化の恩恵を受けるようになった。また、プラスチックの加工技術が進み、清掃性がよくなり、内外装の色が明るくなり目立つようになった。
<2>加工食品の発達
1892年に瓶詰Bottlecapが発明された。1922年に1ポンド整形バターが開発された。1927年に牛乳のホモゲナイズが開発された。牛乳中の乳脂肪を細かく砕いて消化をしやすくする手法で、子供が飲んでも消化不良を起こさないために普及し、幼児死亡率の低下に効果があった。1928年にスライス食パンの開発が行われた。1905年にはジュークボックスが開発され、あらゆる年齢層が集う場所に導入されるようになった。レストランは単に食事をする目的だけではなく、友人と会うためや、音楽を楽しむ、会話を楽しむ、噂話をする、家族が日曜日に集う、ビジネスマンが顧客を接待する、という多目的な、楽しむ場所になった。
⑤ロードサイドレストランの誕生
1872年にロード・アイランドRhode Islandでウオルター・スコットWalter Scottが手押し車をヒントにパイオニアー・ランチ・ワゴンPioneer Lunch wagon(元々は幌馬車で旅行をする人を対象にした調理機器を乗せた馬車のことで、それをヒントに馬車の荷台を料理製造販売ができるようにに改造した移動式屋台)を誕生 させ、近代的なロードサイドレストランの時代の幕を開けた。通常の工場労働者の仕事は午後8時に終るが、その頃には通常のレストランは店を閉じている。そこで、茹で卵と、パイ、コーヒー、ひき肉を挟んだサンドイッチ、をランチ・ワゴンで造り、熱々の状態で提供するようにした。そのランチ・ワゴンを真似したのが、元警察官のルーエル・ジョーンズRuel B.Jonesは顧客にサービスをするオープンカウンターを備えた、天井がガラス張りで敏捷な印象を与える明るい赤いワゴン車を開発して参入した。
1887年にニューイングランド博覧会New England Fairで、サムエル・M・ジョネッシャSamuel Messer Joneshaは、顧客が中に入れる大きさの、長さ16フィート(約5m)、幅7フィート(約2m)の食事ができるワゴンを800ドルで造り紹介した。中には調理場を備えステンドグラスを使用していた。
1891年9月に起業家のチャールス・パーマーCharles H. Palmerは幾つかのワゴンを開発し、特許を取得した。そして、そのワゴンを造り販売をするビジネスが誕生し、全米の各地の路上でランチ・ワゴンのビジネスが見られるようになった。後にランチ・ワゴン王と呼ばれるようになったトーマス・バックレーThomas H. Buckleyはニューイングランド・ランチ・ワゴン社New England Lunch Wagon Companyを設立し、1889年には全米の275の町にランチ・ワゴンを設置営業していた。1897年にはニッケルメッキのコーヒーアーン(大型のコーヒーマシン)、モザイクタイル、照明、黒檀の床ebony pedestalを備えた豪華なワゴンを開発した。バックレーBuckleyはさらにワーセスターWorcesterにホワイト・ハウス・カフェと呼ばれる固定式のランチ・ワゴンを設置した。面積は18,000スクエアーフィート(1,674平方メートル)で、内装に縞大理石(メキシカン・オニックス)を使用し、ソーダファウテン(炭酸飲料ディスペンサー)を備えた豪華な造りだった。しかし、ニューイングランドでは人気の移動式ランチ・ワゴンは他の地域では営業が10時までに制限され、それ以上の長時間営業をするためには固定式にしなければいけないという問題を抱えるようになった。また、移動式ランチ・ワゴンの低所得労働者向けの安っぽく、けばけばしいイメージがあった。また、当時、ギリシャからの移民たちがランチ・ワゴンのビジネスに参入するようになり、ランチ・ワゴンのイメージはあまり良いものではなかった。そのイメージを払しょくするべく、ランチ・ワゴンの内外装の高級化をするべく、経営者たちは使い古した市電を購入し、ランチ・ワゴンに改造をするようになった。ニューヨーク州ニュー・ロシェルNew Rochelleのランチ・ワゴン製造業のパトリック・ターニーPatrick J. Tierneyは列車食堂風の豪華な内外装に改装することにした。女性が利用できるように、ゆったりとしたブース席、換気装置、排気ファン、トイレット等の最新の設備を設置し、その大型ランチ・ワゴンをダイナーDiners、1人で運営する小型のランチ・ワゴンをダイネッツDinettes、と名付けた。ターニーTierneyが1917年に死亡した時には億万長者になっていた。その後、会社は1925年には1日1台のペースでダイナーを製造していた。
1930~1940年代にはあらゆるもの、冷蔵庫から蒸気機関車まで流線型のデザインのブームが巻き起こり、ダイナーも流線型のデザインを取り入れるようになった。また、きらきらと光るステンレス製の装飾物を内外装に使う豪華なダイナーに変身し、リチャード・ガットマンRichard J.S.Gutmanとエリオット・カーフマンElliott Kaufmanが1979年に執筆した アメリカンダイナー・”American Diner”はこの時代のダイナーをダイナーの黄金時代Golden Age of the Dinerと呼んだ。この時代には全米に6,700のダイナーが毎日100万食を提供していた。1940年代の終わりには13社のダイナー製造会社があり、毎年250台のダイナーを製造していた。1950年代には流線型のダイナーは段々古臭いイメージとなり、ダイナーは大型の窓を備えた宇宙船的な未来型のデザインとなり、規模も大型化するようになった。しかし、1960年~1970年代のファスト・フードチェーンの台頭に伴い、ダイナーのブームは終わり始めた。しかし、まだ、米国の各地には古いダイナーが名物として経営を続けている。当時のダイナーの存在は食事よりも、そのデザイン、雰囲気を楽しむものだった 。
1800年代の終わりには薬局の片隅で炭酸飲料を造る、ソーダ・ファウンテンという飲料スタンドが出来上がった。炭酸飲料はフィラデルフィアのエリアス・デュランドElias Durandが炭酸飲料を消化不良の治療薬として販売するようになったのが起源だ。(現在でも米国の家庭では炭酸飲料を治療薬として使う。気持ち悪くなったときにはコカコーラを、下痢の時にはスプライトを子供に飲ませる)その後、アトランタの薬剤師のジョー・ペンバートンDr.Johe Styth Pembertonがコーラの実から飲料を造り、ジェイコブス薬局Jacob’s Pharmacyで販売し、コカコーラが誕生した。
1874年にアイスクリーム・ソーダが誕生した。起源には2つの説があり、一つはテキサス州のサンアントニオのハニッシュ・アンド・ベアー・アイス・クリーム・パーラーHanisch & Baer Ice Cleam Parlor を経営するヘアー・ハーニッシュHerr Harnischが開発した。もう一つの説は1874年10月のフィラデルフィア・フランクリン・インスティテュートの博覧会でロバート・グリーンRobert M.Greenがアイスクリーム・ソーダを販売し、最高、1日で100ドルの売上を上げたといわれている。1893年のアメリカン・マガジンAmerican Magazineがアイスクリーム・ソーダは国民的飲み物だと宣言したほど、急速に普及していった。
1903年にフィラデルフィアのブロード・ストリートBroad Street薬局が初めて炭酸飲料ディスペンサーをカウンターに設置し、顧客に向かって接客しながら炭酸飲料を製造できるようになった。また、アイスクリーム・コーンは1904年のセントルイス万国博覧会で紹介された。その後、ソーダ・ファウンテンではミルクシェイク、モルト(麦芽入りミルクMalted)、サンデー、フラッペ(かき氷Frappe)、パフェ、フィズ(弱炭酸飲料Fizze)、エッグクリーム、バナナスプリット、等がきらきらしたガラスや大理石を使った豪華な内装の中で販売されるようになった。1908年には75000店舗のソーダ・ファウンテンの店舗が全米に存在した。
1920年代~1930年代はダイナーの全盛期であったが、ダイナー以外に、コーヒーショップ、カフェ、軽食堂luncheonette、等の軽い食事や飲料を提供する店舗が増加していた。
1904年にマサチューセッツ州スプリングフィールドのハリー・ケルシーHarry S. Kelseyが軽食堂のランチョネットluncheonette、ランチルームlunchroom の営業を開始し、高級ホテルの名前を使い、ウオドルフ・ランチョWadorf Luncho名付け、東海岸に1920年までに74店舗を開店した。軽食堂は第一次世界大戦の後、急増し、ソンプソンズ・シカゴThompson’s Chicagoやバルチモアーのデアリー・ランチDairy Lunchは1920年には104店を展開していた。当初は軽食堂の内装は地味であったが清潔感を重視していた。その後、モネル・メタルMonel Metal(銅と錫の合金)を使った内装材などを使用する豪華な内装になっていった。1910年にはパリでネオン照明が開発され、1930年頃には軽食堂の内装にも使われるようになった。軽食堂などではサンドイッチが提供されるようになり、各地の軽食堂で色々なサンドイッチが開発されウエッジWedge,グラインダーGrinder等の名前がつけられた。
1900年代にサンドイッチが各地で開発される。1900年代のニューオリンズにはプッシュPushというサンドイッチがあった。1927年に起業家のクロビスClovisとベニー・マーティンBenny Martinはそのサンドイッチを基に、ポボーイPoBoyというボリュームたっぷりのサンドイッチを造った(現在でも、ニューオリンズ等の南部でポボーイという名前で販売されている)。1910年にはニューオリンズの中心街フレンチクオーターのセントラル・グロサリーCentral Groceryのサルバトーレ・ルパSalvatore Lupaが長い特製のフレンチ・ローフにサラミ、チーズ、ピックルス等を入れたマフレッタMuffulettaを造った。1930年にはフィラデルフィアのパットPat とハリー・オリビエリHarry Olivieri兄弟が辛いソースとイタリアン・ローフにグリルステーキを挟み、辛いソースで味付けしたサンドイッチを造った。1948年にチーズを加えて、フィラデルフィア・チーズ・ステーキPhiladelphia Cheese Steakと命名した。1905年にフロリダ州タンパTampaのコロンビア・カフェColumbia Caf?でキューバン・サンドイッチCuban Sandwichやキューバン・ミックスCuban Mixが造られた。1930年には2枚のライブレッドにコーンビーフ、サワークラフト、スイスチーズ、ロシアンドレッシングを挟んだルーベン・サンドイッチReuben Sandwichが造られた。造ったのはニューヨークのルーベンズ・デリカテッセンReuven’s Delicatessen か ネブラスカ州のブラックストン・ホテルBlackstone Hotelのルーベン・クラコフスキーReuben Kulakofskyだといわれている。ホット・ブラウンHot Brown サンドイッチはスライスしたターキーにモーネー・ソースMornay Sauce(チーズを入れたホワイトソース)とスライスベーコンを入れており、ケンタッキー州ルイビルで1930年代にザ・ブラウン・ホテルThe Brown Hotelで造られた。北東部では第2次世界大戦中にコネチカット州のグロトンGrotonの米国海軍基地の軍隊が地元のイタリアン・デリ(イタリア惣菜店)に500のヒーロー・サンドイッチHero Sandowichesを注文し、サブSubというサンドイッチの名前が誕生した。
⑥セルフ・サービスの誕生
1885年9月4日にニューヨークに最初のセルフサービスのカフェテリア、エクスチェンジ・バフェExchange Buffetが開業した。この店舗の主要な客は男性中心で、セルフサービスで料理を購入した後は立食であった。ダイナーの陰で地味な存在のカフェテリアは学校給食や家族の会合などに使われるようになっていた。カフェテリアは地元密着型の健全なレストランだ。特に忙しいビジネスマンが短時間でたっぷりの料理を適正な価格で食べられるので人気が出た。1893年にシカゴで開催された博覧会World’s Columbian Expositionで最初の誰でも利用できるセルフサービスのカフェテリアが開店した。経営者のジョン・クルーガーJohn Krugerはスエーデンのカフェテリアスタイルのスモーガスボードをヒントに開店し、カフェテリアと呼んだ。カフェテリアはスペイン語でコーヒーショップの意味だ。その後、数社のカフェテリアがシカゴに開業した。1898年にチャイルドChilds 兄弟がニューヨークのカフェテリアでセルフサービス用のトレーを取り入れた。2年後にはニューヨークのバーナー・マックフェデンBernarr Adolphus Macfaddenはペニー(1セント)レストランを開業した。この店舗は殆どの料理を1セントで提供した。
1902年6月9日に革新的な業態、オートマットAutomatがフィラデルフィアのジョセフ・ホーンJoseph Horn と フランク・ハダートFrank Hardartにより開発され開店した。彼らはカフェテリアの形態にドイツの会社に注文したコイン販売機械を追加した(この機械の特許はドイツの会社が持っていた)。従来の料理が並んで、コックが料理を盛り付けるサービス・カウンターに、小さなガラス張りの窓を設けた数多くの棚を設置し、その中に調理済みのサンドイッチ、パイ、ケーキ、を入れてある。顧客はコインを入れて(ほとんどの価格が5セント)中から料理を取り出す仕組みだ。そして、会社は創業者の2名の名前をとってホーン&ハダートHorn & Hadartと名付けられた。その後、フィラデルフィアで数店舗を開店後、ニューヨークのタイムズスクエアー(ニュヨーク、マンハッタンの中心の繁華街)に1912年7月2日に開店した。店舗は豪華でお洒落な最新のデザインを取り入れた内装であった。1939年にはニューヨークに40軒のオートマットが開店していた。しかし、ニューヨークとフィラデルフィア以外の都市では成功しなかった。シカゴやボストンに進出したがすべて失敗に終わった。そして、オートマット形態の店舗のブームは終わってしまった。また、カフェテリア形態の店舗も1960年代には人気が低下していった。しかし、カフェテリアの形態は南部では大変人気があり、現在でもその頃の店舗が残っている。
(3)ファスト・フード時代の到来
レストランの大衆化と自動車社会の到来がファミリー・レストラン、ファスト・フードを誕生させるようになった。ピィルズベリーPillsbury Richardは「この年には2,400店のチェーンレストランが米国に開業していた。 ピルズベリーは1920年から1930年の間に、レストランは贅沢品から必要な日常品に変化したと述べている 。」
①ファスト・フードの誕生
1919年ロイ・アレンRoy Allenとフランク・ライト Frank WrightがA&Wを設立し最初のファスト・フードの誕生となる。カリフォルニアのビジネスマンのRoy Allenはルートビアー(root beer薄荷味のコーラ飲料)のレシピーをアリゾナの薬剤師から購入し、1919年6月に最初の試作をした。ハーブとスパイス、ベリー(イチゴ類)、木の皮を混ぜたものだった。一杯5セントで販売した。3年間で3店舗開店し、従業員だったフランク・ライトを共同経営者にして,両者の名字の頭文字をとってA&Wと名付けた。その後、アレンはライトの権利を買収し店舗をフランチャイズ展開を開始し、外食産業のパイオニアとして知られる存在となった。
1921年に最初のドライブインが誕生する。自動車産業が栄え始めたころ、ダラスで煙草とキャンディーの卸売業を営んでいたカービーJ.G. Kirby は車で移動する人は車から降りて食事をすることが面倒くさいと感じていることを発見し、ルーベン・ジャクソン博士Dr.Reuben Wrigth Jacksonの助けを借りて1921年9月に豚のバーベキューを提供する、米国で最初のドライブイン、店名「ピッグ・スタンドthe Pig Stand」をダラス・フォートワースの高速道路に開店した。ウエイターやウエイトレスは車にトレーに乗せた料理を運ぶので、カーホップCarhopsと呼ばれるようになった。ハリウッドのコーラスラインが着用するようなお洒落な制服を身にまとった。その後の10年間でカービーと彼のフランチャイジーはピッグ・スタンドを中西部からニューヨーク、カリフォルニアに至るまで60店舗をチェーン展開した。
1921年にホワイト・キャッスルが最初のハンバーガー・チェーンとして誕生した。レストラン経営者のウオルター・アンダーソンWalter Andersonは1916年にグリルの上に置いた玉ねぎのみじん切りの上で蒸し焼きにした(低温のグリルの上に置いた玉ねぎが発生する蒸気で、その上のハンバーガー・パティを焼き上げる、いわゆるスロークッキング)ハンバーガー・パティをパンに挟んで5セントで販売する移動式レストランを3店舗経営しており、4店目を開業するに当たり、共同経営者を探していた。当時、不動産と保険のセールスマンをしていたE・W・イングラムEdgar Waldo Ingramがアンダーソンと知り合い、カンサス州ウイチタWichita, Kan.にホワイト・キャッスルを開業したのがハンバーガー・チェーンの始まりだ。イングラムは店名を清潔で長く継続するようにとホワイト・キャッスルと名付けた。1933年にはイングラムはアンダーソンから会社の株をすべて買い取っていた。そして、目立つ白いお城の外観(シカゴのウオータータワーを模して造った)と美味しいハンバーガーで大繁盛をし、10年後には115店舗になっていた。数年後には11の州にフランチャイジーを設けた。しかし、まだスピードやセルフサービスを売り物にしたファスト・フード形態ではなかった。そして、小さなハンバーガーを「袋ごと買おう」”buy em’ by the sack.” という標語をつけた。イングラムはホワイト・キャッスルが定めた調理レシピーに厳格に従うように従業員やフランチャイジーに要求し、どこの店舗でも同じ味を出せるようにし、その仕組みは後のファスト・フードの標準的な考え方となった。従業員の身だしなみも写真入りで、具体的な服装の注意点を誰にでもわかるようなマニュアルを作成した。また、販促面でも5つのハンバーガーを10セント(本来は25セント)で販売する割引券を新聞折り込みで配布するなど販促面でも工夫を凝らした。また、後のファスト・フードの標準となった、持ち帰り用の耐熱包装容器や紙ナプキンを開発した事でも知られている。そのホワイト・キャッスルを多くの企業が真似をしたが、その一番有名なのはミルウオーキーのホワイト・タワーWhite Towerである。そして、1930年には両社は真似をしたとして法廷で争うことになった 。ジェフリー・テニソンJeffrey Tennysonは、「ホワイト・キャッスルは、外観などのイメージ、メニュー、サービス、等を標準化したという点で後のファスト・フードの原型となる。身だしなみの点では初めてペーパー・キャップを開発して、衛生面と従業員の衛生面とアピアランス外観の向上を実現した。品質面では冷蔵のハンバーガー・パティから冷凍のパティに変更し、四角いミートパティに5個の穴をあけ、火の通りを良くするという改善を行った。1956年には1年間で91,566,342個のハンバーガーを販売した。」としている。
1927年7月の蒸し暑い日にユタ州から来たモルモン教徒26歳J・W・マリオットJ. Willard Marriottは後に結婚するアリス・シーツAlice Sheetsと共にワシントンDCの街かどで群衆を眺めていた。その時に冷たい飲み物を提供するA&Wが大繁盛をしているのを見て、フランチャイジーになることを考えた。すでに従兄弟のシャーマン・マリオットSherman Marriottがフォート・ウエインでA&Wのフランチャイジーになっていたこともあり、ジーになることを決めた。そして、$3,000ドルを持ってパートナーのヒュー・コルトンHugh Coltonと一緒に9席に小さなルートビアースタンドをワシントン市に開店した。MarriottとAliceは朝から晩まで一所懸命に働き、最初の年に$16,000ドルの売上を記録した。そして、冬に寒いワシントンで成功するためにフランチャイザーのアレンの許可を得て、種類の豊富な暖かい料理を追加した。後にマリオットは外食とホテル業で大成功を収めた。
1930年にファミリーレストラン ハワードジョンソンが誕生する。自動車が普及し始め、車で移動する人々にとっては便利な外食チェーンのニーズが出てきた。そこに登場するのがマサチューセッツ州ワラストーンWollaston, Mass.のハワード・ジョンソンHoward Johnsonだった。ジョンソンはマサチューセッツ州クインシーQuincy, Mass.で倒産した薬局を改装して、炭酸飲料の販売店を開店し、彼が開発した3種類のアイスクリームを販売開始した。1935年にハワード・ジョンソンはファスト・フード的な商品のハンバーガーとホットドックを加えてケープコッドCape Codに店舗を開店した。しかし、ジョンソンはまだ資本力がなかったので、彼のブランドとコンセプトを基にフランチャイズ展開を開始した。ジョンソンは高速道路上に店舗展開をするにあたり、車客が店舗を見逃さないように目立つオレンジ色の屋根と子供の童謡に使われているなじみのある韻をふむ”Simple Simon met a Pie Man.” をロゴにした。アイスクリームはすぐに28種類に増加し、その他人気を呼ぶ料理を開発した。1945年にはジョンソンのチェーンは100店舗になった。そして、ペンシルバニア州政府と交渉し、ペンシルバニア州の高速道路網に独占的に店舗を展開する権利を獲得した。ハワード・ジョンソンは後のファミリーレストラン(米国ではコーヒーショップ)の元祖となり日本のロイヤルが忠実に参考にしている。
1932年10月24日にクリスタル・ハンバーガー Krystal hamburgersがホワイト・キャッスルを模倣して開業する。創業者のダベンポートR.B Davenportは店舗デザインに水晶玉のイメージを使い、水晶の頭文字のCの代わりにわざとKを使い、顧客の印象に深く残るようにした。
1932年にカリフォルニア最初のドライブイン「ピッグ・スタンド」が、ハリウッドのサンセット通りとバーモント通りの交差点に開店した。料理のメインは焼いた豚肉を挟んだサンドイッチだ。
1934年にアイスクリームのカーベルCarvelとデアリー・クイーンDairy Queenが誕生する。自動車メーカー、スチュードベーカーStudebakerのコンプレッサー(圧縮機)のメカニックでテストドライバーのトーマス・A・カーベラスThomas Andreas Carvelasはソフトクリームを造る機械を開発し、フローズン・カスタード”frozen custard.” と命名した。彼のギリシャ系の名前を米国人風に短縮したカーベルCarvelと改名して、ニューヨーク州ハーツデイルHartsdale, N.Y.で、妻から15ドル借りてトラックでソフトクリーム販売を開始した。そして、ハワード・ジョンソンと同様にフランチャイズ展開を開始して米国北東部に店舗展開を開始した。 後に、フランチャイズ展開を開始し、近代的な契約書とフランチャイジーの教育を強みとした。同じ年にイリノイ州グリーンリバーGreen River, Ill.で自家製のアイスクリームの卸売りを営んでいたJ.F.マッカロー J.F. McCulloughはソフトクリームは冷たいデザートの中で最も人気が出るだろうと確信した。そこで、マッカローはお得意先のシェーブ・ノーブルSherb Nobleにそのアイディアを紹介し、カンカキーKankakeeで販売をすることにした。
1938年8月4日にノーブルは10セントでアイスクリームの食べ放題の販促を実施し、1,600人の顧客が殺到した。そこで、マッカローは性能の良いソフトクリーム製造器を探し始め、ハリー・オルツHarry Oltzが開発して常に華氏23度に保つことのできる、特許を取得したソフトクリームマシンを見つけた。Harry Oltzと独占契約を締結して、マッカローはフランチャイズ店舗展開を開始した。ノーブルが最初のフランチャイズオーナーとなった。そして、乳製品の女王、デアリー・クイーンDairy Queenと命名した。
1934年にステークン・シェイクSteak ‘n Shakeが誕生する。イリノイ州のノーマルNormal, Ill.にガス・ベルトGus Beltはシェルズ・チキンShell’s Chickenというガソリンスタンドとレストランを経営していた。しかし、イリノイ州には数多くのチキンとビールを売り物にするレストランがあり、ガスは差別化の必要性を感じだした。そこで同年の2月にドライブインの ステークン・シェイクSteak ‘n Shakeチェーンを開業した。イリノイ州という寒い気候に対応して店内の客席を備え、かつ、持ち帰り用のステーキバーガーを用意し訴求した。ラウンド・ステーキ、サーロイン・ステーキ、Tボーンステーキの他にハンバーガーを客の目の前で調理する方法で人気を呼んだ。また、店名のようにクリーミーなミルクシェイクも名物となった。そして、売上が高まり店舗だけでなく外部に駐車する車に対するカーホップサービスも開始し、フランチャイズ化を行い、後にドライブスルーサービスに切り替えた。
1930年代中頃ロサンゼルスでチャールズとハリー・カーペンター兄弟が カーホップサービスのカーペンター・ドライブイン・チェーンを開店し、最古のドライブインと言われている。カーホップ(ウエイトレス)用の教育映画まで作った。
1930年代中頃にはドライブインが普及する。ロサンゼルスの名門レストラン経営者シドニー・ホードメーカーがハーバート・ドライブインを始めた。名門レストラン経営者がドライブインを始めたので、ドライブインというビジネスを認知させた。その後、2~3年のうちにカリフォルニアのいたるところに、カーホップ・ドライブインが出現し、それに伴い革新的な経営者が続々と堪能した。ある経営者はウエイトレスにローラー・スケートを履かせてサービス速度を高めたり、駐車場にスピーカー電話を置いて顧客が注文できるようにした。
1936年にビッグ・ボーイが創業する。ドライブインはサービスのスピードアップだけでなく、メニューも豊富になってきた。グランデールのボブ・ワイアン・ドライブインBob’s Pantryではパンを3枚使いその中にハンバーグとケチャップ、今ディメントを挟み3段重ねにしたハンバーガーを考案し大人気となった。
1937年にボブのビッグ・ボーイBob’s Big Boyとして店名を変更する。ワイアンはこの新製品にちなんで店名を「ボブのビッグ・ボーイBob’s Big Boy」と改名して、ファミリーレストラン(米国ではコーヒーショップ)として成長した。ファスト・フードのフランチャイズ展開が始まる10年以上前の1940年代にワイアンはビッグ・ボーイの販売権を、ミルウオーキー、シンシナティ、デトロイト、ナッシュビル、の業者をはじめ、6人のドライブイン経営者に売っていた。それらのドライブインはBobの代わりに好きな名前を付けることができた。ワイアンは外食業界で最初に子供に漫画の本を配布したり、最初に胡麻付きのバンズをハンバーガーに使用した。(後にマクドナルドがこの三段重ねの胡麻付きバンズと2枚の肉のサンドイッチをヒントにビックマックを開発したので有名)。また、調理人に初めてネームプレートを着用させるなどのアイディアマンであった。また、最初に従業員に健康保険や利益配分を与えたことでも有名である。
②ファスト・フードの勃興
1937年に車社会に移行しつつあったカリフォルニア州パサディナの東に、ディックとマック・マクドナルド兄弟Maurice “Mo” and Richard “Dick” McDonaldは小さなドライブインを開いた。簡素なドライブインで、ディックとマックのマクドナルド兄弟がハンバーガーを焼き、店内のテーブル客にサービスし、駐車場の客には3人のカーホップを雇って応対させる小さな店であった。
1939年4月30日にニューヨークで万博が開催され、世界各国の料理が紹介された。
1940年にマクドナルド兄弟はロサンゼルスの東50マイルにあるサンバーナディーノE通り14番街にマクドナルド・ドライブインを移転して開店した。600平方フィートの小さな店であったが、外観が変わっており、建物の形状が八角形で、前半分の屋根からカウンターまでが窓になっており、調理場は丸見えでそれまでのレストランの常識を破る構造だった。内部に座席はないが、外側のカウンターに沿って数脚のスツールがある。カウンターの下の仕切りはステンレス製だった。人目を惹く外観から1940年代の中ごろにはティーンエイジャーの客のたまり場になり、週末の晩には駐車場に125台の車が押し寄せ、20人のカーホップが大忙しだった。メニューは25種類、ビーフとポークのサンドイッチ、アーカンソーのヒッコリーでバーベキューしたスペアリブなどであった。売上は毎年二十万ドルを記録した。
1941年7月カール・カーチャーCarl N. Karcherは所持金の15ドルと所有していた自家用車プリモスを担保に311ドルを調達してホットドック・カートを購入して商売を開始した。初日の売上は14.75ドルだった。50年後にハンバーガーとチキンサンドイッチを主力としたカールス・ジュニアはCarl’s Jr 640店舗、620億円の売上の規模となっている(日本では関西で日本のファミリーレストランチェーンのフレンドリーと提携して数店舗開店したことがあるが数年後に撤退した)。カーチャーは米国で初めてセルフサービスサービスを開始した。また、店舗内にはカーペットを敷きつめ、エアコンディションも完備し、バックグラウンドミュージックも流した。調理システムではコンベアー式の両面焼き機(コンベアー・ブロイラーと言い、現在ではバーガーキングも同様の調理方式を採用している)、サラダバー、顧客への栄養のアドバイス、ドリンクバー、などを初めて採用した。カールス・ジュニアは顧客の注文を受けてから製造するという仕組みで、ファスト・フードとファミリー・レストランの中間的なやや高級業態という位置づけである。
1945年にマサチューセッツ州の二人の兄弟が貯金した500ドルを元手にフレンドリー・アイスクリームFriendly Ice Creamの一号店を開店した。後に、アイスクリームを売り物にするファミリーレストランとなる。
1946年にオハイオ州ガリポリスの街でボブ・エバンスBob Evansは自分の農場で生産した豚肉を材料にソーセージの製造を始め、そのソーセージを提供する24時間営業のレストランを開業した。米国では朝食には牛肉でなく、豚肉加工品のソーセージやベーコン、ハム、を主食として付け合わせに卵料理を食べる。ボブ・エバンスは朝食に特化したファミリーレストランのボブ・エバンスだ。
1948年カリフォルニア州のボールドウイン・パークBaldwin Parkで、ハリー・シュナイダーHarry Snyderは車に乗ったままで商品を買えるドライブスルー方式のハンバーガーレストラン、イン&アウトハンバーガーを開店した。通常のハンバーガー・レストランはハンバーガーを造り置きして顧客が注文してすぐに提供できるようにするが、シュナイダーは顧客が注文してからハンバーガーを造りだすことを売り物にした。そのため、注文してから15分も顧客を待たせる状態になったが、できたてのハンバーガーを提供するということで人気がでた。
1948年にはマクドナルド兄弟は毎年五万ドルの利益を山分けするほど金持ちになったが、やがて競争相手が現れた。マクドナルド兄弟の店舗そっくりな強豪だった。また、カーホップ・ドライブインがティーンエイジャーのたまり場になりすぎ、ファミリーなどの幅広い客層を獲得することができなくなるという問題も抱えた。売上が低迷する中でマクドナルド兄弟は、低価格の料理を提供する割にコストの高い労働集約型の構造に気がつきだした。また、新規参入のドライブインによる従業員の奪い合いにより、転職率が高いという問題も発生ていた。また、ティーンエイジャーの客は食器を盗むという問題にも悩まされた。そこで、異なる場所に新しい店舗を開店しようと、売上を分析してみると売上高の80%がハンバーガーであり、バーベキューなどが売れないことに気がついた。そして、新しいお店にはスピード・サービスが重要だと気がついた。カーホップサービスではサービススピードが遅いのでスーパーマーケットで一般的になっていたセルフサービスに切り替えることにした 。そこで儲かっている店舗を3カ月休業し、20名のカーホップを解雇し、セルフサービスのカウンターを設けた。調理場もスピード化と大量生産に備えて改良し、標準型の幅3フィートのグリドルをやめ、特注した幅6フィートのグリルを2台導入した。食器も廃止し、ペーパーバッグ、包装紙(ハンバーガーを包むラップ)、紙コップ、に変えて、皿洗い機を廃止した。メニューは25種類を9種類に減らした。ハンバーガー、チーズバーガー、12オンスサイズの3種類のソフト・ドリンク、ミルク、コーヒー、ポテトチップス、パイ、の9種類である。ハンバーガ・パティの肉1枚当たりのサイズを1/8ポンド((56.3g))から1/10ポンド(45g)に小型化した。その代りに従来30セントで販売していたハンバーガーの価格を15セントに引き下げた。また、調味料も顧客の注文を聞いてからでは時間がかかるので、すべてのハンバーガーにはケチャップ、マスタード、たまねぎ、ピクルス2個をつけた。異なる注文を出す客には待たせることにした。こうして流れ作業が可能になると同時に、ピーク時にはあらかじめ作り置きしたハンバーガーを用意してサービスのスピード化を図った。マリアーニは『マクドナルド兄弟はマサチューセッツ州のニューハンプシャーからカリフォルニアに移住しサンベルナーディノSan Bernardino のE Streetに小さなドライブインを開店した。従業員は20名だった。その店舗は年間二十万ドルの売上 と順調だった。しかし、第2次世界大戦が終了し、労働環境が変わってしまった。徴兵から帰ってきた人たちはより良い仕事を求めたり、従軍すると奨学金が出たので大学に行くなど、レストランで働く人が減少した。そのため1940年には売上に対する人件費率が27%であったが、1947年には35~40%に上昇してしまった。(筆者注:通常レストランの人件費は25~30%、食材コストも25~30%であり、両方を合わせたFLコストは60%以下でないと赤字となる)。そこで、質の悪い従業員に飽き飽きしたマクドナルド兄弟は1948年12月に従業員のカーホップサービス(ウエイトレス)を全員解雇した。そして、25種類のメニューを絞り込み9種類にした。そして、客は自ら店舗のカウンターで料理を買うセルフサービスを導入した。その人件費とメニュー絞り込みによるメリットは顧客に対して、従来のハンバーガーの販売価格の半値の15セントという低価格だった。そして兄弟は彼らの新しいシステムをスピーディー・システムと称した。1952年7月号のAmerican Restaurant Magazine は人件費が売上に対して17%に低下したと述べている。その成功に気を良くした兄弟はそのAmerican Restaurant Magazineに「彼らのセルフサービス方式は過去50年間のレストランの歴史で最も革新的な方式である」と広告を打ち、その方式を全米に知らしめてしまった。兄弟はこの広告の後、フランチャイジーの募集を開始した 。』と述べている。
1948年12月に店を再開した際には店舗の看板にスピーディーというシェフの服装を着たキャラクターを掲げた。最初は苦戦し売上は改装前の1/5まで落ちたが、メニューにミルクシェイクとフレンチフライを付け加えることにより6ヶ月後には売上は伸び出した。売上が伸びたもう一つの理由は、セルフサービスという新しい形態により、不良少年のたまり場から脱却し、家族連れも来れる健全な店舗になったことだ。そして、労働者階級の人々が子供連れで食事にいけるレストランとなった。マクドナルドの八角形の店舗は窓が広く内部が見通せたので、調理光景がアトラクションとなったし、安かろう悪かろうというイメージを払しょくした。また、調理光景が見えることが子供にも人気が呼び、子供が自ら注文できるお店としても人気が出た。子供に人気が出ることは一緒に来る親も引き付ける要因となった。再開1年後には兄弟は投資をすでに回収した。しかし、兄弟が思い描いている売上には達していなかった。そこで、兄弟はヘンリー・フォードがT型フォードを生産するにあたって、考案した自動車のアッセンブリーライン(流れ作業方式)を採用し、人間の複雑な手作業が必要な調理工程を流れ作業方式に変えることにした。流れ作業方式を取り入れるためにはキッチンのレイアウトと人の流れがスムーズに行く、性能の高い調理機器、アルバイトでも一定の味付けができる調理器具、が必要であり開発を開始した。 まず、ディックはハンバーガー用のバンズが24個のる回転式のテーブルを作成し、グリルから少し離れた場所で開店するテーブルが回る間に2人でパンに調味料を塗る。開店テーブルは移動する台につながっており、グリルまで運ばれる。そこでハンバーガー・パティ(焼きあがった肉)がパンに載せられると、包装する場所に送られる。高性能の調理機器を開発するためにレストランの設備に全く経験のない地元の職人、エド・トーマスに調理機器や調理器具を開発させた。知識がないことが斬新な構想を可能にした。その開発は大量のハンバーガーの肉をひっくり返すに使うスパチュラを薄い金属から、固い大型のスパチュラにする、ハンガーガーの調味料のケチャップ、マスタードを一定量自動的に塗るディスペンサー、などであった。特注の調理機器だけではなく、調理という職人技が調理速度でも品質でもばらつくので、少ないメニューを作業分担させた従業員に反復作業をさせることにした。3名のハンバーガー担当者はグリル・マンがハンバーグ・パティを焼きあげる、バン・マンがパンを焼き上げる、ドレス・マンが焼きあがったパンにケチャップ、マスタード、ピックルス、オニオン、を乗せるだけ、の分業作業とした。シェイク・マン2名は1人がカップにシロップとミルクミックスを入れるだけ、もう1人がそのカップをミキサーで攪拌するだけにした。フライ・マン2名は1人がフレンチフライをフライヤーに入れ、もう一人が上がったフレンチフライに塩をかけて紙バックに詰めるだけ。グリルの反対側の販売窓口側に立ったプロダクション・コーラーはハンバーガーの製造の注文と出来上がったハンバーガーを包装し保温庫に保管する。2名のカウンター・マンは2か所の窓口で注文を受け出来上がった商品を袋に詰めて渡すだけ。とそれぞれの作業を明確に分け、分担制にした。そして、各自が分担する仕事もスピードアップするためにさらに細分化した。ハンバーガーの注文をプロダクション・コーラーがグリル・マンに大声で伝えたり、注文に応じて素早く対応する手順を明確にした。シェイクはマルチミキサー(複数のミキサーが一台にまとまっている。後にマクドナルドコーポレーションを設立したレイ・クロックが販売をしていた)4台を並べ、前もって作ってある80杯のミルクシェイクをアイス・キャビネット(保冷する冷凍ショーケース)に用意した。さらに、売上のピーク時に30秒で提供できるように、客の注文を聞いてから作るのではなく、来店客の予測をして商品を作り置きするようにした。また、造り置きして時間が経過すると品質が低下するので、売れない場合は何分経過したら廃棄するかを明確にした。この仕事の手順の細分化によりマクドナルドの生産性は伸び、同時に自動車産業でヘンリー・フォードが行ったような労働力の節減が可能になった。未経験者を最低賃金で雇い、短期間の訓練で、即席料理の一流コックに仕立て上げたのである。また、女性目当てで来るディーンエイジャーを避けるために従業員は男性のみとした。このサンバーナディーノ店の成功は1年もしないうちに、セルフサービス、ペーパー・サービス、スピード・サービスを軸とした独特な経営形態となった。このようにT型フォードの生産方式を学び、レストランの世界に合理的なレイアウトの導入と、きちんとした作業配分実施し、低価格のハンバーガーを販売することを可能にしたのだ。
1951年にカリフォルニア州南部のメキシコ国境に接しているサンディエゴに、後にドライブスルーを普及させたジャックインザボックスJack-In-The-Boxが誕生した。
1951年にショニーズが誕生する。オハイオ州立大学のアメリカンフットボールのオールアメリカン代表選手だったレックス・ショーンバウムAlex Schoenbaumの最初の飲食業は1940年代後半のウエスト・バージニア州チャールストンCharlestonに開業した、ドライブイン・コンセプトのパーケットParketteだった。2年後の1951年にビッグ・ボーイ創業者のワイアンとフランチャイズ契約を締結して、店名をショニーズ・ビッグ・ボーイShoney’s Big Beyと改めた。その後、ショニーズ・ビッグ・ボーイ Shoney’s Big Boyをショーンバウムのフランチャイズグループの店舗を率いるダナー・フードDanner Foods(経営者はレイモンド・ダナーRaymond L. Danner)と合併しショニーズ・ファミリーレストラン・チェーンに成長させた。ダナーDannerで会長を務めていたデーブ・ウオッチッテルDave Wachtelがショニーズの社長に就任し、ショニーズは段々多角経営に乗り出すようになり、キャプテンCaptain D’s 等の魚のフライ・チェーン展開を開始した。
1952年頃マクドナルドの成功を見てビジネスを真似した人が続出する。その中で、ジム・コリンズ James Collinsという、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校を卒業したエンジニアがマクドナルドをヒントに、ロサンゼルスSepulveda and Centinela in Los Angelesに造ったハンバーガー・ハンドアウト”Hamburger Handout” がある。ジム・コリンズは「1952年にマクドナルド兄弟に電話をして店舗とオペレーションを見せてもらえないかと依頼したら、兄弟は快くすべてを見せてくれた。昼の12時には顧客が行列をしているのを見て驚いた。それをヒントにハンバーガー・ショップを開業し、初年度に$420,000を売上、そのうち$80,000 は持ち帰りだった」と語っている。ジム・コリンズは後にKFCの最大手のフランチャイジーになり、ファミリー・ステーキ・レストランチェーンのシズラーを創業する。その他にマクドナルドを真似して外食業界に参入したのはグレン・ベルGlen Bellという電話の修理工だ。グレンはマクドナルドの常連客であり、建設業界にいた友人を説得して出資させ、何時も使っているマクドナルドのようなセルフサービスレストランを開業した。彼は、単にマクドナルドのハンバーガーを真似するだけでなく、テックス・メックス(テキサスとメキシコ地方のひき肉と豆、香辛料を使ったスパイシーな料理)の要素を取り入れてメニュー開発をした。現在では米国で最大のテックス・メックス料理チェーン、タコベルTaco Bellとなっている。
1953年バーガーキングの前身が誕生する。キース・クレイマーKeith Cramerとマシュー・バーンズMatthew Burnsの2名のフロリダ出身者はサンベルナルドのマクドナルド兄弟に会いに行き、南部のジャクソンビルJacksonvilleに彼らの最初のインスタ・バーガー・キングInsta-Burger Kingを1953年に開業した。
1954年コーネル大学ホテルスクール卒業生で、レストラン業界に従事していたジェームズ・マクラモアーJames McLamoreは友人のデイブ・エドガートンDave Edgertonと一緒に、マクドナルドを真似してハンバーガーとミルクシェイクを売り物にするハンバーガー・チェーンのインスタ・バーガー・キングInsta-Burger King 南フロリダ地域の販売権を獲得してハンバーガー・レストランをマイアミの3090 NW 36th St.に開業した。まもなくして、インスタ・バーガー・キングはバーガー・キング”Burger King.”に店名を変えた。現在はマクドナルドに次ぐ2位のハンバーガー・チェーンだ。マクドナルドの真似をしていたが、当初は売上が低く苦労をしていた。そこで、製造能力と生産性を向上させようと、ハンバーガーの調理方法であるブロイラー・システム(マクドナルドは鉄板で焼き上げるグリル方式であるが、ブロイラーは炭やガス電気などの熱源で直接焼き上げる方式で、脂が落ち燃えた煙がハンバーガーに香りをつけるので米国人が好む調理方法)の改良を行った。そして、そのブロイラーで調理をするバーガーキングの主力メニューのワッパー”the Whopper.”を1957年に37セントで発売した。ワッパーは現在ではバーガーキングの看板メニューとなっている。1961にジェームズ・マクラモアーとデイブ・エドガートンはバーガーキング社から国内外のフランチャイズ展開権を買い取った。1967年に274店舗を展開していた同社を大手食品メーカーのピルズベリー社Pillsburyに $18ミリオンドルで売却した。
1958年にバーガー・シェフが誕生する。マクドナルドとバーガーキングの成功を見て、1950年代に幾つかの模倣ハンバーガー・チェーンが誕生した。1958年にバーガー・シェフBurger Chefがフランク・トーマス Frank Thomasによって誕生した。トーマスはその後ソフト・アイスクリーム・マシン・メーカーのサニ・サーブSani-Servの社長にも就任した。サニ・サーブはバーガーキングのブロイラーを製造していた。ちなみにバーガー・シェフは1970年頃に不二家と提携して日本に初めてドライブインのハンバーガー・レストランを郊外の茅ケ崎(江の島の先)に開店したが、日本はまだ自動車社会ではなく、まもなく撤退してしまった。
1952年にKFCが誕生する。現代であれば退職をしている年齢の66歳になったハーランド・サンダースは元気いっぱいであり、年金で細々と生活するのではなく、新しいビジネスへ挑戦を開始した。サンダースはケンタッキー州カービンCorbinの州道沿いに1940年からモテルとガソリンスタンド、サンダースカフェという食堂を経営していた。宿泊客や旅行客に食堂で美味しいフライドチキン(南部名物)を提供しようと美味しい調理方法の研究開発をしていた。ダーデンDardenによれば、『当時の南部のレストランがフライドチキンを調理する方法は、フライパンに油を注ぎ調理するパンフライPan-frying方式が一般的だった。しかし、少なくても30分は調理に時間がかかる。もし忙しい時に早く出そうと事前に揚げて置いておくと売上予測が狂った際には大量に余ってしまう。フレンチフライを揚げるような大量の油を入れるディープファットフライヤーでは早く調理できるが、カリカリに揚がったり、部位によって揚がり方が異なるという問題を抱える。そんな矛盾に悩んでいるサンダースに金物店の店員がプレストPrestoの圧力釜を使うことを勧めた。早速一つ買い入れ、その性能に驚いたサンダースは直ぐに7台を追加購入した。次にサンダースが行ったのは独特のスパイスの配合だった。色々研究をしておいしい配合を見つけたが、従来の顧客が味が異なると嫌がるだろうと思って、変更できないでいた。しかし、1950年に近くを流れる川を利用した観光客船が500人の客用の料理をサンダースに発注することになった。初めての客であるので、抵抗はないだろうとサンダースは長年温めていた新レシピーを使ったフライドチキンを提供した。顧客たちには大好評だった。やがて、サンダースは圧力釜で調理をするというアイディアと11種類の秘密のスパイスを基に美味しいフライドチキンの調理方法を完成し、調理方法の特許を取得した 。(添付資料参照 日米の特許公報)』後にサンダースはカーネル(大佐)の称号を州知事のルビー・ラフォンRuby Laffonからケンタッキー州名物の美味しい料理方法を開発したとして授けられて、カーネル・サンダースと呼ばれるようになった。しかし、彼の店舗の面している近所に州間高速道路75号線Interstate 75 の建設が行われ、ビジネス客や旅行客はカービンの街を素通りするようになってしまった。顧客が激減したサンダースは倒産の危機に陥った。サンダースは立派な顎鬚をと黒のスーツとヒモ・ネクタイを身にまとう(白い上下の服を着る前)、という、いでたちで圧力釜と彼の開発した11種類のハーブとスパイスを詰めた袋をキャデラックに乗せて、レストラン経営者に売り歩きはじめた。サンダースのレストラン経営者との契約書は簡単だった。レストラン経営者がフライドチキンのレシピーと調理方法を気に入れば、サンダースに一食ごとに何セントかのロイヤルティを支払うというものだった。
サンダースの最初のフランチャイジーはソルトレイク市Salt Lake Cityでハンバーガー店を経営していたレオン・ピート・ハーマンLeon “Pete” Harmanだった。そして、ハーマンはメニューにサンダースのレシピーのフライドチキンを付け加えると、お店の看板を”Kentucky Fried Chicken.” に変更した。後にハーマンは店舗運営の中心はカリフォルニア州のロスアルトスLos Altosに移転し、ハーマン・マネージメント社Harman ManagementとしてKFC社最大規模のフランチャイジーとして260店舗を運営するようになった。もう一人のサンダースの信奉者はジム・コリンズJames Collinsで、最初にサンダースにあった時の印象を次のように語っている。「サンダースは頑固で彼のやり方を押し通すタイプだった。でもサンダースのフライドチキンは最高の味で気に入ってしまった。」
1967年にコリンズCollinsはシズラーSizzlerを買収する。コリンズはKFCのフランチャイジーとなり、やがて240店舗のKFC店舗を開店する最大規模のフランチャイジーとなった。1967年にコリンズは165店舗のファミリー・ステーキハウスのシズラーSizzler友人のデルマー・ジョンソンDelmar johnsonから1ミリオンドルに満たない額で購入した。これがきっかけとなりコリンズ・フーズCollins Foods社は多角経営に乗り出すことになった。後のウエンディーズ創業者デイヴィッド・トーマスはKFCで働いていた。インディアナ州のフォート・ウエインFort Wayneで24歳になる若者デイビッド・トーマスR. David Thomasは経営する農場風レストランでサンダースのフライドチキンをメニューに付け加えるだけではなく、後にオハイオ州コロンバスColumbusで経営不振にあえいでいたKFCの4店舗を経営するフランチャイジーを買い取ることになった。KFCは9年以内に600店舗、後の州知事のJohn Y. Brownと投資家に売却。創業して9年後にサンダースのKFCは600店舗になり、2ミリオンドルと終身顧問契約を条件に、ケンタッキー州ルイビルLouisvilleの投資家ジャック・マッセーJack Masseyと29歳の弁護士ジョン・ブラウン John Y. Brown(後にKFCの成功によりケンタッキー州の州知事に就任)に売却した。 その後、KFCは2回売却された。1971年に洋酒会社のヒューブラインHeubleinに、次に、1986年にコーラ飲料メーカーのペプシコPepsiCo Inc.に840ミリオンドルの巨額で売却された。サンダースは1980年に死去した当時、地球上でボクシング・ヘビー級世界チャンピオンのモハメッド・アリの次に有名な人物として知られるようになった。
1950年代には南カリフォルニアに斬新なデザインのコーヒーショップが続々と誕生する。
コーヒーショップは天候の良い南カリフォルニアで通行する車から目立つように宇宙時代の建物のデザインを身にまとって開店した。出版物のアメリカン・イート・アウト”America Eats Out,”によれば1950年代当時の人気デザインはブーメラン”boomerangs, 星と放物線stars and parabolas.それらのデザインは当時流行っていた大人向けのコミックブックのフラッシュゴードン”Flash Gordon”やジェトサン “The Jetsons,”からヒントを得ていた。それらのコーヒーショップのタイニー・ネイラーズ・アンド・シップTiny Naylor’s and Ship.はテーブルの上に調味料の棚をとトースターを設置するなどユニークなアイディアを駆使していた。
1950年にダンキンドーナツが誕生する。ニューイングランド州で自ら設計した冷蔵自動車で配送する、工場労働者向けの仕出し屋を経営していたウイリアム・ローゼンバーグWilliam Rosenbergは「ボストン周辺のドーナツ屋を観察したら、4つの種類のドーナツ、プレイン、ジェリー詰め、イーストドーナツ、クルーラーしか提供していないのに気づいた。そこで、52種類の異なるドーナツを販売すれば人気が出るだろうとアイディアが閃いた」と語っている。ローゼンバーグは彼のアイディアを基にダンキンドーナツDunkin’ Donutsを開業した。名前は当時のコメディアンのレッド・スケルトンRed Skeltonが何時も演じていたドーナツをコーヒーにつけて食べる仕草ダンク・イン・ドーナツdunked doughnutsをヒントにつけた。米国は清教徒が造った国で、清教徒の影響が強いマサチューセッツではドーナツを販売する小売業は日曜日の営業ができなかった。そこで、ローゼンバーグはドーナツメニューにコーヒーを付け加え、ドーナツの小売店ではなく、コーヒーも提供するレストランとして日曜日の営業を可能にした。後にハンバーガー・チェーン最大手になったマクドナルド創業者のレイ・クロックはローゼンバーグに「もし、神様が私の一つの願いを聞き入れてくれるなら、マクドナルドのコーヒーがダンキンドーナツのように美味しければな、とお祈りする」と語っているほど、ダンキンドーナツのコーヒーの品質は高かった。 そして、ローゼンバーグはフランチャイズ・システムで店舗展開を行い、後にインターナショナル・フランチャイズ・協会International Franchise Associationを設立した。
1955年21人の経営者がニューヨークのホテルで多店舗外食チェーン展開協会MUFSO Multi-Unit Food Service Operators 設立総会を開催した。
1955年の7月17日にマクドナルドの創業者レイ・クロックの戦友で、漫画家のウオルター・ディズニーWalter Elias Disneyが長年の夢だった、テーマパークのディズニーランドをカリフォルニア州のアナハイムに開業した。従来のテーマパークの通常の飲食はハンバーガーやフレンチフライ、ホットドック、等であった。しかし、ディズニーはディズニーランドのテーマとマッチングした飲食店を自営で運営することにした。メインストリートでは消費者向け大手ブランドのマクスウエル・コーヒーハウスMaxwell House Coffee Shopとカーネーション・アイスクリーム Carnation Ice Cream Parlor. を開店。ツモローランド”Tomorrowland”ではスペースバーSpace Bar,ファンタジーアイランド “Fantasyland”では海賊船レストランThe Pirate Ship Restaurant,ペプシコーラガーデン Pepsi-Cola’s Golden Horseshoe, ジェミマー叔母さんのパンケーキ・ハウスAunt Jemimah’s Pancake House、カサ・デ・フリトス・メキシカン・レストラン the Casa de Fritos Mexican Cantina. という、ディズニーランドのテーマ性のある楽しいレストランを開いた。
1958年にIHOPが誕生する。カリフォルニア州ロサンゼルスのビジネスマン、アル・ラピンは朝食メニューを1日中提供するというファミリーレストランを開店し、IHOP、インターナショナル・ハウス・オブ・パンケーキInternational House of Pancakesと命名した。(日本では長崎屋と提携して店舗展開をしたが長崎屋の経営不振に伴い撤退した)
1950年代にはパパママストアが中心であったピザ業界も産業化を進め、ファスト・フード業態を開発し始めた。
1958年にカンサス州ウイチタWichitaのダンとフランク・カーニー兄弟Dan and Frank Carneyが6席に小さな店舗のピザ・ハット”Pizza Hut”を開業し、後にウイチタ州立大学Wichita State University campusの構内に移転した。その後、チェーン展開を開始し、最初のフランチャイズ店舗はカンサス州のトプカTopekaに1959年に開店し、その後、カンサス州を中心に展開していった。同時期にシェイキーズ・ピザShakey’s Pizzaは西海岸にチェーン展開をしていた。シェーキーズに対抗するためにカーニー兄弟は、経営するピザ・ハットがエンターテイメント型にするべきか、地域密着型の店舗にするか迷った。そして、彼は地域密着型を選択した。競合のシェーキーズに対抗するために、店舗運営方法のシステム化や店舗デザインの標準化に取り組んだ。1964年には客が一目でピザ・ハットと認識できるユニークな建物の外観と店内のレイアウトを完成した。1972年には全米に314店舗を展開し、ニューヨーク市場で株式公開を果たした。そして、1978年にピザ・ハットはペプシコに買収された。ペプシコは1997年にKFCとタコ・ベルを買収した。2001年にはペプシコから分離してトライコンTricon社を設立した。2001年にはさらにフィッシュ・アンド・チップスのロング・ジョン・シルバーLong John Silver’sとルートビアーとハンバーガーのエー・アンド・ダブリュA&W Restaurantsを買収し、社名をヤム・ブランドYum! Brandsに変更した。
1959年にデニーズが誕生する。1953年カリフォルニア州レイクウッドLakewoodにデニーズ・ドーナツ Denny’s Donutsが24時間営業で開店し、初年度に$120,000ドルの売上を記録した。6年後にデニーズ・レストランDenny’s Restaurantsに名称を変更した。その他の宇宙船時代の参入者はトロイ・スミスTroy Smithでオクラホマ州のショウニーShawneeに秒速サービス “service at the speed of sound”というスローガンでソニック”Sonic.”というレストランを開業した。
1959年にリトル・シーザースが創業。1959年5月8日ミシガン州のガーデンシティGarden Cityで野球球団のデトロイト・タイガースの外野選手だったマイケル・イリッチMichael Ilitchは,メジャーリーガーの夢をあきらめ、夫人のマリアンMarianと一緒にイタリア料理のピザとパスタの店を開業し、リトル・シーザースLittle Caesarsと名付けた。 当初マイクは店名をピザ・トリート”Pizza Treat,としようと思ったがマリアンがマイクのイメージからリトル・シーザースと命名した。1号店も現在も営業を続けている。会社は1979年に導入したキャッチコピーのピザ・ピザ”Pizza! Pizza!”で有名になった。キャッチコピーは強豪のピザと同じ値段で2枚のピザの価格だという低価格の訴求だった。メニューはピザの他にチキン、シュリンプ、魚を付け加えた。
1960年にドミノ・ピザが創業する。1960年にミシガン州のイプシランティYpsilantiで、トムとジェームズ・モナハン兄弟Tom &James MonaghanはドミニックDomiNick’sという小さなピザ屋を買収した。買収資金は75ドルの現金と、500ドルの借金だった。8ヶ月後ジェームズはトムの中古のフォルクスワーゲンと交換に半分の持ち分をトムに譲り渡した。単独の経営者となったトムは1965年に店名をドミノ・ピザに変更した。1967年に最初のフランチャイズ店舗をイプシランティに開店した。その後、順調に店舗展開を続け1978年には200店舗になった。1975年にドミノ・ピザはドミノ・シュガーの製造メーカーのアムスター・コーポレーションにAmstar Corporation商標登録の訴訟を起こされた。しかし、1980年にドミノピザは勝訴した。1983年5月12日ドミノ・ピザは最初の海外進出をカナダのウイニペグWinnipegに果たした。同年、同社は1000店舗となった。1995年には海外に1,000店舗を展開し、1997年には海外店舗が1,500店舗となった。経営を開始して38年後の1998年に創業者のトム・モナハンTom Monaghanは引退を発表し、持ち株の93%を投資ファンドのベイン・キャピタルBain Capital, Inc.に1ビリオンドルで売却した。
1960年にハーディースHardeeが誕生する。ウイルバー・ハーディーWilbur Hardeeがノースカロライナ州グリーンヴィルGreenville, に炭焼きで調理する15セントのハンバーガー・ショップを開店した。フランチャイズ展開を行い、アメリカンフットボールチームのバルチモアー・コルトBaltimore Coltのジェリー・リチャードソンJerry Richardsonが加盟した。後に、400店舗を展開する大フランチャイジーのスパルタン・フーズSpartan Foodsとなった。30年後にはリチャードソンはハーディーズのフランチャイジーからフラッグスターFlagstar Cos.という複数の外食企業を経営する年間売上高$3ビリオンドルの大企業の経営者となる。
1964年にオハイオ州にアービーズArby’s.が開業する。オハイオ州のフォレストとリロイ・ラフェルForrest and Leroy Raffel兄弟は、ローストビーフを挟んだサンドイッチの店舗を、1964年7月23日オハイオ州ボードマンBoardmanに10席の小さなお店を開業した。最初はラフェル兄弟を意味するR.B’sと店名をしたが、後にアービーズArby’sという店名に変更した。6年後には6店舗に成長し、飲料も強化して、3000店舗以上まで成長した。
1965年にサブウエイ・サンドイッチ誕生する。17歳になるコネチカット州ブリッジポートの大学生フェデリック・デルーカFrederick DeLucaは学費を稼ぐ方法を考えて相談した、放射線物理学者のピーター・バックPeter Buckの投資1000ドルでピーツ・サンドイッチPete’s Submarinesを開業する。後に、米国で一番多い店舗数を誇るサブウエイSubway Sandwiches & Saladsとなる。
1966年2月にノーマン・ブリンカーがカジュアルレストラン業態を開発する。ノーマン・ブリンカーNorman Brinkerは1931年6月3日にデンバーで誕生、1952年にヘルシンキで開催された夏のオリンピックに米国ポロ競技の代表として参加。1954年にブタペストで開催された近代5種競技に選手として参加。ブリンカーBrinkerはハンバーガーチェーンのジャック・イン・ザ・ボックスJack in the Boxがまだ7店舗のチェーンの頃にアルバイトとして勤務したのが、外食産業への第一歩だった。後に、氏は自らの店舗ブリンクス・コーヒーショップBrink’s coffee shopをダラスに開業。そして、1966年2月にステーキ・アンド・エールSteak & Ale1号店を開店した。これがカジュアルダイニングという最初の店舗となった。店はサラダバーを備え、サービス担当の従業員に大学生を雇うことで大成功し、1971年28店舗の時点で株式公開に成功した。1976年にはステーキ・アンド・エールSteak & Aleは109店舗にまで成長し、大手食品メーカーのピルズベリーThe Pillsbury Co.社に買収された。そして、ブリンカーBrinkerはピルズベリー社の取締役副社長に就任した。ピルズベリー社は小麦粉製品を製造する大手食品メーカーで、ファスト・フード第2位のバーガーキングも子会社に持っていた。また、宇宙飛行士の食事のために、高度な食品の衛生管理手法であるHACCPを考案したことでも有名だ。ブリンカーはピルズベリー社在籍中に新しいレストランコンセプトのベニガンズBennigan’sを作り上げた。1982年にはブリンカーはピルズベリー・レストラン・グループPillsbury Restaurant Groupの社長に就任し、バーガーキングBurger King,ステーキ・アンド・エール Steak & Ale,ベニガンズ Bennigan’s、ポッピン・フレッシュ・レストラン Poppin Fresh restaurants.等のチェーンを経営した。社長に就任後、ハンバーガー業界トップのマクドナルド社と熾烈な競争を繰り広げたことは有名な話だ。後にピルズベリー社はバーガーキングとステーキ・アンド・エール部門を英国の酒造会社グランド・メトロポリタン社Grand Metropolitan PLCに売却した。ベニガンズBennigan’s創業の1年前にテキサスのラリー・ラビンLarry Lavineはカジュアル・バー・グリル・コンセプトのチリーズ社Chili’sを創業していた。ブリンカーはピルズベリー社傘下のバーガーキング社のトップを4年間務めた後に退職した。ブリンカーは1983年に28店舗になっていたチリーズ社を創業者ラリー・ラビンから買収し、1991年に社名をブリンカー・インターナショナル社Brinker International Inc.に変更し、現在では傘下の店舗数は1,700店舗を超えている。現在のチェーン企業はChili’s, On The Border 、Mexican Grill & Cantina、Maggiano’s Little Italy 等だ。ブリンカーBrinkerは1966年にSteak & Ale、1970年代にBennigan’sというカジュアルレストランを創業し、米国人の食生活を大きく変化させた。ブリンカーの貢献はカジュアルレストランという業態を作っただけでなく、数多くの人材を育成したことだ。ブリンカーはピルズベリー社に在籍しながら2番目のコンセプト、ベニガンズBennigan’sを開業したとき、店舗はカジュアルレストランを目指す経営者のブートキャンプとなった。ブリンカーが育成したのはTGIフライデーズ社TGI Friday’sのリチャード・リベラRichard Rivera、スパゲティ・ウエアハウス社Spaghetti Warehouseのルイ・ニーブLouis Neeb、チチズ社Chi-Chi’s前会長のハル・スミスHal Smith、アウトバック・ステーキハウス社Outback Steakhousesの共同創業者クリス・サリバンChris Sullivanとロバート・バシャムRobert Basham等、錚々たる人々だ。
1968年にレッド・ロブスターが開業した。ビル・ダーデンWilliam (Bill) Dardenはレッド・ロブスター・イン・オブ・アメリカRed Lobster Inns of America を設立してレッド・ロブスターRed Lobsterをフロリダ州のレイクランドに開業した。海から遠いない陸地に魚料理の店を開いた。そして、1970年に5店舗まで規模を拡大したが、それ以上の展開には資金や人が必要であるとして、ゼネラル・ミルズ社に会社を売却した。
1970年ゼネラル・ミルズ社General Millsは外食に進出する。1970年にミネアポリスにある大手食品メーカーのゼネラル・ミルズ社General Millsはシリアルやパッケージ販売の食品から、外食店舗の経営に乗り出すことにした。初期の2つのコンセプトはベティー・クロッカー・パイ・ショップBetty Crocker Pie Shopsとスリー・ハウス・レストラン Tree House restaurantsだった。しかし、この店舗は成功とは言えなかった。その年にゼネラル・ミルズ社は5店舗を経営していたビル・ダーデン経営のレッド・ロブスターBill Darden’s Red Lobster を買収した。買収後、発足したてのレストランチェーンをゴーン・ウーリーGone Woolley,が運営し、ビル・ダーデンが採用した最初の店長であったジョー・リーJoe Leeに店舗展開を任せ、一地方のレストランから全国にチェーン展開をさせた。リーは直ぐにチェーン展開にとっては使用する魚などの食材を上手に入手することが大変重要なことに気がついた。そこで、州の漁業担当官をしていたジョージ・グロスGeorge Gross, と後にレッド・ロブスターの社長になるビル・ハッタウエイBill Hattaway,達と共に魚類を購入する専門家が世界の港を回ってチェックし、購入する仕組みを構築した。後に、魚の養殖事業も手掛けるようになった。
1969年11月15日にウエンディーズが誕生する。デイヴィッド・トーマスR. David Thomasは子供のころからレストランの片づけ(バスボーイ)で働き、働ける年齢になるとすぐにレストランで仕事をしだした。26歳のときにトーマスはインディアナ州のフォート・ウエインFort Wayneのホビーズ・ランチ・ハウスthe Hobby Ranch House で働いた際に、KFCのサンダースに出会い、お店にフライドチキンを付け加えた。その時に当時の上司のフィル・クラウスPhil Clauss,がトーマスに「オハイオ州コロンバスに移住して、経営不振のKFC4店舗を立て直さないか?もし成功したら地区のフランチャイズ権を貰えるよ」と声をかけた。トーマスは2つ返事で承諾した。バーンシュタインBernsteinは『トーマスは「30前に何か挑戦しなければいけないと思っていた。」と語っている。 トーマスは直ぐに荷造りをして夫人のロレインLorraineと4名の子供と共にオハイオ州に出発した。トーマスの最初の仕事は全ての店長を解雇するという不愉快なものであった。それからメニューを基本のチキンに絞り込み、店名をケンタッキーフライドチキンを販売しているホビー・ランチ・ハウス”Hobby Ranch House featuring Kentucky Fried Chicken,”からケンタッキーフライドチキン Kentucky Fried Chicken に変更した。 トーマスは低下している売上を立て直すために型にはまらないやり方をした。ラジオコマーシャルや外部の大看板の代わりに大型のKFCのバスケットを開店させるなどの目立つ広告宣伝を行った。1968にはコロンバス地区の売上は以前の3倍になった。そして、トーマスは店舗を会社に1.5ミリオンドルで売却した。技術者の養父と一緒に色々な街を転々としていたトーマスは40歳になる前に億万長者となったのだった。1969年の11月15日に35歳になるデイヴィッド・トーマスR. David Thomasはアーサー・トリーチャーズ・フィッシュ・アンド・チップスArthur Treacher’s Fish and Chipsの副社長をしていた。社会的な成功や経済的な成功を達成してもトーマスは満足できず、何か新しい仕事への挑戦、例えばハンバーガーの新業態開発などの新しいビジネスを興したいと思っていた。そして、トーマスは大手チェーンが冷凍のミートパティを使っているのに対して、新鮮な肉を調理したハンバーガーや、チリビーンズ、濃いミルクシェイクを販売すれば成功するのではないかと考え付いた。彼のアイディアは後に大人から子供まで愛されるようになったオールド・ファッション・ハンバーガーOld Fashioned Hamburgersとして実現した。ロゴマークのデザインに当たって、トーマスは彼の3番目の娘メリンダ・ルーMelinda Louまたは通称ウエンディーWendyのそばかすと髪の形までそっくりなイメージを反映させた。1969年11月15日、トーマスは最初のウエンディーズWendy’s をオハイオ州コロンバスの下町に開店した。メニューは注文ご調理をして提供する、一枚の肉、2枚の肉、3枚の肉を挟んだハンバーガーだ。チリビーンズは113gの牛肉を使う贅沢なもので、後は濃いミルクシェイクのフロスティFrostyなどだ。』 ウエンディーズ・インターナショナルは4,000店舗になり、その財務状態はファスト・フード業界でも断トツに優れている。
1969にクラッカー・バレルCracker Barrelの1号店が開店する。テネシー州のシェル・ガソリンスタンドで働いていたダン・エバンズDan Evinsはホームスタイルのレストランとギフトショップの併設店が、閉鎖の危機に陥っていたのを悲しく思っていた。「ファスト・フードのお店ばかり増えて、古いカントリースタイルのお店は過去のものになりつつある。」と考えたエバンズは後の1969年9月19日にギフトショップを併設した農家風の古いカントリースタイルのレストランをテネシー州レバノンLebanonに開業し、クラッカー・バレルCracker Barrel.と命名した。
1970年にビクトリア・ステーションが創業する。英国のビクトリア・ステーション駅に停車している豪華な食堂車をテーマにした、ローストビーフを売り物にするビクトリア・ステーションは1970年に人気が出た。このコンセプトは当時、コーネル大学ホテルスクールCornell University Hotel Schoolの学生だったピーター・リーPeter Leeとディック・ブラッドリーDick Bradleyが卒業テーマとしてビジネスプランを造り、同店舗を開業したボブ・フリーマンBob Freemanから買収し、店舗展開を開始し、最初の店舗をサンフランシスコに開店した。ベビーブーマーの世代が大きくなった1970年代は彼らの好みのカジュアルレストランを求めており、ビクトリア・ステーションは最適な存在となり一時は米国やカナダに100店舗を展開するようになった。日本でもダイエーと提携して展開した。しかし、ブームは去り、1986年には会社更生法を申請して店舗は閉鎖されてしまった。
1978年にペプシコは外食に進出する。ペプシコPepsiCoは製粉会社のピルズベリーPillsburyやゼネラル・ミルズGeneral Mills と同様に外食事業への多角化を考えた。そして、300ミリオンドルの投資(実際は株式交換)でウイチタWichitaのカーニー兄弟Carney Brothersからピザ・ハットPizza Hutを買収した。その1年後には125ミリオンドルで(株式交換) タコ・ベルTaco Bellを買収した。さらにKFCを800ミリオンドルで買収し2001年にはペプシコから分離してトライコンTricon社を設立した。2001年にはさらにフィッシュ・アンド・チップスのロング・ジョン・シルバーLong John Silver’sとルートビアーとハンバーガーのエー・アンド・ダブリュA&W Restaurantsを買収し、社名をヤム・ブランドYum! Brandsに変更した。
(4)近代の米国外食業界現状(1980~1994年)
80年代はレストラン業界が成長を遂げており、急速なチェーン展開、他社への過剰なレバレッジ・バイアウト(買収先の資産を担保に入れて資金調達をする仕組み)、マネージメント・バイアウト(MBO従業員や経営者による自社の買収)、そして、景気後退による会社更生法Chapter 11 filingsの申請の多発,企業ごとのリストラ、従業員のレイオフ(解雇)など、レストランは激動の時期であった。この80年代は環境問題や残飯などの食品廃棄物、健康や栄養問題、などレストランを取り巻く環境は厳しいものになっていた。また、レストランに対する政府による法的規制や規制は禁酒法時代以来の厳しいものになってきた。また、従来は外食産業を急成長させてきた原動力のフランチャイズ・システムだが、80年代には加盟しているフランチャイジーが本部のフランチャイザーと争うようになり、訴訟も相次ぐようになった。
1980年代にレッド・ロブスターは200店舗になり、ゼネラル・ミルズ社は研究部門を造り、次の業態を模索し、カジュアル・イタリアン業態のオリーブ・ガーデンを1982年にフロリダ州オーランドに開店した。この成功は他企業の買収よりも効率的で成功率が高いと、ゼネラル・ミルズ社は続々と新コンセプトを開発することにした。オリーブ・ガーデンの8年後にはカジュアル中華業態のチャイナ・コーストChina Coastを開発した。
1982年にハーディーズHardee’sは同業のバーガーシェフBurger Chefを買収して店名をハーディーズに変更した。
フィラデルフィア州の給食会社のARA services社の会長ジョー・ニューバーJoe Neubauer は他の61名の経営陣と共に公開企業の自社株1200万株を917ミリオンドルで買収するMBOを実施した。
マリオット社Marriott Corpはグラディエックス社Gladieux Corpとサガ社 Saga Corp. を買収し、最大規模の外食企業となった。
輸送業や化学製品、食品包装資材製造の大手企業ダブリュ・アール・グレース社W.R. Grace & Co.は580ミリオンドルで、エル・トリートEl Torito、キャロウズCarrow’s、ザ・パンケーキハウス the Plankhouse 、ジョジョズJoJo’s,等の幾つかの業態の高級レストランとファミリーレストランを買収し、レストラン・エンタープライゼス・グループ社Restaurant Enterprises Group Inc. を設立した。
1979年にサウス・カロライナ州スパルタンバーグSpartanburgのスパルタン・フーズ Spartan Food Systemsは,数百店舗のハーディーズ Hardee sとクインシー・ステーキハウスsthe Quincy’s Family Steakhouse systemを展開していたが、1979年にトランスワールド社Transworld Corp.(トランスワールド航空Transworld Airlinesとヒルトンホテル Hilton Hotelsの持ち株会社)に買収された。その6年前に球場やコンベンションセンターの食事に特化していたインターステート・ユナイテッド社を買収した給食会社のキャンティーン社Canteen.を、今度はトランスワールド社が買収。1986年にはトランスワールド社は清算し、TW Services Inc.となる。1987にTW Services社はデニーズ社Denny’s family restaurant chain と炭焼きチキンのエル・ポヨ・ロコ社El Pollo Locoを買収した。TW Services社の年商は$3ビリオンドルになり、数ヵ月後にフラッグスター社Flagstarに会社名を変更する。
この時期には合併などで大規模になる例も多いが、同時に失敗し市場から消滅したブランドも多かった。
1957年にカリフォルニアに、サム・バチストーンSam Battistone Sr.とニューエル・ボネ Newell Bohnetの2人が創業したサンボスSambo’sは、かつては米国最大規模のファミリー・レストラン・チェーンとなっていた。バチストーンは彼のサミーズ・グリルをカリフォルニア州のサンタ・バーバラで数年間経営し、機械のセールスマンのボネに出会ってサンボスを創業した。サンボスのモットーは「10セントで世界で最も素晴らしいコーヒーを提供する」というもので コーヒーと一緒に美味しい21種類のパンケーキを提供するコーヒーショップ(ファミリーレストラン)であった。店名は”Sam”と “Bohnett,”の両者の名前からつけられた。最初の5年間慎重に経営を続けた後、サンボスは急速な店舗展開を開始し、全米48州に1,000店舗を展開し、米国最大のコーヒーショップ・チェーンとなった。しかし、無謀な急速チェーン展開と、消費者の満足度の低下、内部管理の不足、店長に対する利益配分が証券取引委員会に違法だとの指摘をされる、などの不祥事が続き、会社はあっという間に解散となり、現在ではサンタ・バーバラの1店舗を残し、他のお店は消滅してしまった。当時、日本のファミリー・レストランのすかいらーくが米国型のコーヒーショップを展開しようとサンボスと提携交渉を進めており、1号店を練馬区に開店する予定で準備をしていたが、この事情によりあきらめ独自のコーヒーショップのジョナサンを開店した。
その他、フレイキー・ジェイクスFlakey Jakesやディー・ライト・オブ・アメリカ D-Lites of Americaも不幸な運命をたどった。
1981年にダグ・シェリーDoug Sheley とジェフリー・ミラーJeffrey Millerは1981年にジョージア州のノークロスNorcrossに当時米国人の関心事となっていた肥満とコレストロールの問題に注目し、健康的な料理を提供するディー・ライト・オブ・アメリカを開業した。ディー・ライトは全穀粒を使ったパン、マフィン、や低脂肪のチーズや高価なサラダバーを売り物にしていた。しかし、ウエンディーズ等のファスト・フードが健康的なサラダなどの販売を始め、ディー・ライトの売上を浸食していった。そのため1980年の中ごろには会社更生法Chapter 11の申請をせざるを得なくなってしまった。
1983年にワシントン州ベルビューBellevueの企業サポート会社のシー・ギャレイ社Sea Galleyの重役によって、大型のグルメハンバーガーのセルフサービス業態(現在ではファスト・カジュアルと呼ばれる業態)フレーキー・ジェイクFlakey Jake’sが開業した。しかし、会社がまだ軌道に乗らないうちに、グルメハンバーガー業態を造り上げたフィル・ロマーノ経営のファドラッカースFuddrucker’sに企業コンセプトの真似だと訴えられてしまった。しかも、投資額が多いにも関わらず、客単価が低いという問題も抱えており、経営を続けていた9年間の間に一回も利益を出すことはなく、やがて消滅してしまった。
1971年に南部のニューオリンズにアルビン・コープランドAlvin Copeland,はフライドチキンのポパイズPopeyesを設立した。ニューオリンズは元フランス領であり、綿のプランテーション(大規模農場)で黒人奴隷を使うことで有名であった。そのため、黒人料理とフランス料理が融合したケイジャンとかクレオール料理というスパイシーな味付けの料理が誕生した。ポパイズはそのケイジャンのスパイシーな味を取り入れたフライドチキンと、ビスケット(小麦粉とバターミルク、ショートニング、ベーキングパウダーを混ぜて焼きあげた家庭のパンで、南部で好まれていた)を売り物に全国展開をしていた。しかし、$398ミリオンドルで競合のチャーチーズ・フライドチキンChurch’sを買収したが、ちょうどこの時期には景気が低迷し、同社の資金繰りが悪化し、会社更生法の申請をせざるを得なくなり、1992年に閉鎖した。
第2章 外食産業に大きな影響を与えた米国大量生産方式
ファスト・フードの最大手のマクドナルドが誕生した際に、オリジナルのマクドナルド・ハンバーガー店舗を完成させる際に、ディックとマック・マクドナルド兄弟はフォードT型モデルを造り上げたフォード生産方式を参考に、流れ作業方式の生産方式を導入し、同時にフォードT型車のように販売する商品の数を大幅に削減した。また、サービスするカーホップサービスをなくし、セルフサービス方式を導入した。その結果、当時人件費率が34%まで上昇していたのを17%まで低下させ、ハンバーガーの販売価格を30セントから15セントという半額にすることに成功した。
本章では、マクドナルドに大きな影響を与え、ファスト・フードを誕生させた原動力であるフォードの大量生産方式がどのように構築されたかを明らかにする。
(1)大量生産方式の必要性
米国における大量生産方式の背景には英国で発生した産業革命以後の蒸気機関、ガソリン機関動力、自動機械、などの発明がある。大量生産の完成には、人手に頼る生産方式から動力化や自動化の機械、動力移動手段、等の英国で起こった産業革命の技術拡散が必要であった。英国の産業革命はその後、フランス、ドイツに伝わり、さらなる産業の発展が行われた。
米国における大量生産方式への取り組みは、狭く資源の限られたヨーロッパから広大で豊な資源を持つ米国への移民により必然的に始まった。大量生産には高い品質の製品を作り上げる職人の存在が必要であるが、当時の米国は建国まもない未成熟の国であり、加工面での熟練の職人が少なかった。そのため、もともと労働人口の少ない米国はより自動化の大量生産に傾倒するのであらう。職人による生産方式から機械化の大量生産を試みる大きな原動力となった。
米国政府は小火器製造の必要性から工廠を設立し、工廠方式(別名、アメリカン・システム)という品質向上の仕組みを作り上げた。これは当時多発した米国国内外の戦争のために必要とした小火器の品質確保のために考案されたものである。小火器の製造において熟練した職人に頼る必要がないように、専用工作機械を使用し、製品のバラツキをなくすべくゴー・ノーゴー・ゲージなどの計測システムを厳格に採用してそれぞれの部品の互換性を実現したのである 。
この部品互換性を実現する考え方は、1765年にフランス軍のジャン・バプティスト・ド
ゥ・グリボヴァル将軍が提案したものであり、その考え方が米国に渡り、1794年に米国合衆国陸軍省は1794年にスプリングリードルに連邦工廠を設立する。その工廠におけるマスケット銃の互換性製造技術は進歩を重ね、1850年にようやく銃の部品互換性は完成した。しかし、部品互換性の確立までには85年という長い歳月が必要であった 。
スプリングフィールド工廠で使用していた製造請負のシステムは後に民間への製造委託につながり、サムエル・コルトが1855年にコネティカット州ハートフォードに開設したコルトの新しい兵器工場が誕生した。そのコルト工場で働いていたジョージ・フェアフィールドはコルトの生産技術を応用して、ウイード社のミシンを製造するようになる 。
その後、1850年代にミシン製造が、ホイーラ・アンド・ウイルソン社、シンガー社、グローヴァー・アンド・ベイカー社、等によって行われ出した。しかし、当初は品質の高い工廠方式をすべての企業が採用していたのではなかった。
(2)米国工廠方式の技術拡散
シンガー社は1851年に設立されたが、当初は工廠方式ではなく、ヨーロッパの熟練した職人による製造方法に近かった。シンガー社が工廠方式の完全な互換部品による工廠方式を採用するのは後の1880年から1882年であった。
シンガー社が工廠方式取り入れるようになったのは、1863年にコルトに対抗して特許を取った回転式連発銃を製造していたマンハッタン火器会社で働いた経験のある、リビウス・B・ミラー採用からである。ミラーは1868年にアメリカ諸工場の総工場長に就任した。その後、低価格のミシンを販売するために、南北戦争中に高品質な小火器を大量生産していたプロヴィデンス工作機会社と契約するなど、工廠方式を段々と取り入れるようになった。ミラーが部品互換システムを完成するのは1881年であり、ミシンの生産台数は50万台になっていた 。
その他のミシンメーカー、ホイーラ・アンド・ウイルソン社は、最初伝統的な手作業で製造をしていたが、有名な兵器工場で働いていた機械職人を雇い製造の工廠方式を早くから導入していた。創業者のナサニエル・ホイーラが当初から工廠方式の生産法方導入を目指していたからである。さらに2代目の工場長ウイリアム・H・ベイリーはハートフォードのサミュエル・コルト兵器工場の内部請負人であった兄のもとで機械職人の技術を身につけていたことも工廠方式の導入に貢献した。その他、シャープス・ライフルを製造していたロビンズ&ローレンス社の請負業者であったジェームズ・ウイルソンを採用するなど、工廠方式の導入には積極的であった。
もう一つの、ウイルコックス&ギブズ・ミシン社は当初よりJ・R・ブラウン&シャープ社に生産を委託していた。J・R・ブラウン&シャープ社は工廠方式が普及しているニューイングランド地方のロードアイランド州に所在しており、工廠方式を取り入れることは当たり前と考えていたようで、当初から、専用の工作機械、冶具、取り付け機、ゲージ、原型モデルの設計を開始した。立ち上がりの製造で苦労したJ・R・ブラウン&シャープ社はハートフォードのロビンズ・ローレンス=シャープスライフル社で働き、アメリカン・システムに精通している機械職人を採用した。その後、J・R・ブラウン&シャープ社はミシンの製造に成功し、ミシンの製造だけでなく、製造に必要な工作機械製造を始めるようになった。J・R・ブラウン&シャープ社は20世紀に至るまでミシンの製造を続け、生産工程の改善を続けた。しかし、ミシンの受注台数は年間3万4千台を上回ることがなく、改善の焦点は品質向上とコスト低減になった 。
この頃の機械工に、ヘンリー・Mリーランドがいる。彼は、1863年からマサチューセッツ州府プリングフィールド工廠で工作機械製造食品として働き、その後、南北戦争の後、コルト社のハートフォード兵器工場や他の有名な機械工場で働いた。そして、1872年にJ・R・ブラウン&シャープ社に入社し1876年に工場部門長に就任し、その後12年間勤務した。その間に、ミシンを厳格な手順によって製造する仕組みに取組むなど、アメリカン・システムの体系化を行った。後に、リーランドはキャディラック自動車会社を設立した 。
ミシンと同時期に大量生産に取り組んだのが農機具製造のマコーミックだ。サイラス・
ホール・マコーミックは1840年31歳の時に市販用リーパーの製造を開始し、1841年にはマコーミック・リーパー社を創業した。金属の刃をそなえた木造のリーパーは当初完全な手作りであり、完成度は低かった。当初のマコーミックの工場は熟練職人と汎用工作機械に全面依存する形態であり、部品の互換性を実現する専用工作機械やゲージ・システムによる工廠方式の導入は行われていなかった。また、製造を担当する弟の保守的な姿勢もあり、大量生産への取り組みは遅々として進まなかった。そこで、1879年にサイラスは新しい工場長として、ハートフォードのコルト兵器工場、コネティカット火器会社、ウイルソン・ミシン会社、などで働いた経験があったルイス・ウィルキンソンを採用した。ウィルキンソンは1年しか在籍しなかったが、息子のサイラスJr.は多くのことを学び、その後の20年間工作用の専用工作機をどんどん使うようになった 。
1880年までにシンガー社とマコーミック社の販売高は劇的に増加しはじめ、競合のミシン製造業者、農機具メーカーは市場からの撤退を余儀なくされるようになった。 その中には廃業をした会社もあるが、他の製造業分野、特に自転車製造業に転じた会社も多かった。
この自転車製造業は新しくかつ重要な金属加工法、スタンピングないしはプレス技術を開発し、後の自動車製造業の技術的基礎となったのである。自転車業界のリーダー的な存在がポープ社であった。
ポープ社は1878年コネティカット州ハートフォードのウイード・ミシン会社に製造を委託し、コロンビア号を発売した。これが米国における自転車時代の始まりである。1866年創立のウイード・ミシン会社は自社製造工場を持たずに、シャープス・ライフル製造会社に製造を委託していた。シャープス・ライフル製造会社はニューイングランド地方の先駆的な小火器メーカーで、専用工作機械の設計と建造を得意としていた。そして、ウイード・ミシン会社の工場長ジョージ・A・フェアフィールドはかつてコルト社ハートフォード兵器工場で働いていた。ウイード社の技術は、兵器製造で使用していた落とし鍛造という金属加工技術が基礎であった。ウイード社は自社用の部品の他に農業機械メーカー、蒸気機関製造メーカー、他のミシン会社にも鍛造品の部品を供給していた。この同じ技術を用いて落とし鍛造をした後に、機械加工を行って自転車コロンビア号の主要備品、ハブ、クランク、ステアリング・ヘッドなどを製造していた。ポープ社は1890年にはウイード社を買収し、ミシンの製造を中止させ自転車製造に集中させた。
自転車製造では競合他社も小火器製造の工廠方式を採用しており、当初は特に目立った
新しい技術はなかった。しかし、やがて、電気抵抗溶接による自転車用フレーム組み立て
、フレーム用鋼管製作技術の冷間引き抜き鋼管技術、空気入りタイヤ製造技術、等後の自
動車製造の基本技術を開発した。
1890年代の中頃の人気ピークには、自転車業界全体で年120万台を生産するようになった。その人気をみて、数多くの兵器製造業とミシン会社が自転車製造に参入するようになった。
ポープ社は検査と品質管理の面において後の自動車産業に重要な貢献をしている。検査において自転車とその構成部品、チェーン、フレーム、車輪という重要な構成要素の部品の様々な破壊検査を実施した。ポープ社は自転車産業の「科学的テスト」の革新者だった。
ポープ社はアメリカン・ホイールメン連盟(LAW)通じて、長期間にわたって「良い道路を」キャンペーンを行い、道路建設につなげ、アメリカの広範囲な幹線道路システムを生み出すことで、自動車が走る基盤を造った。また、ポープ社は自転車の販売促進及び販売活動となる見本市を始めた。これは後の自動車産業の販売にとって必要であった重要な販売促進技術である。
後に、ポープ社は同社の自転車製造で培ったタイヤ製造技術、スチールチューブ抽出加工技術、金属テストと自転車のデザイン検討を行い研究部門を元に、自動車産業に転身をはかったが、失敗に終わってしまった。『アルバート・A・ポープは1895年に「原動機付き乗り物」という記事を書いて、自動車を予言したハイラム・パーシー・マキシムを雇い自動車への参入を決めた。ハイラム・パーシー・マキシムは1892年に自転車に乗っていた時に自動車のアイディアを思い浮かべた人物だ。それ以前は長距離旅行をするには鉄道で十分だと思い、自転車も少なかったので幹線道路を個々人が長距離旅行する可能性を考えていなかった。しかし、自転車の発明と大規模な製造により鉄道の限界を超えた新たな需要を生み出し、足で動かす乗り物ではない、機械式駆動の乗り物が求められると思いついた。ポープ社は1895年にこのハイラム・パーシー・マキシムを技師長に迎えた。マキシムはマキシム機関銃の発明者の息子でマサチューセッツ工科大学卒業であった。そしてポープ社に入社後、同社製のコロンビア三輪自動車にガソリンエンジンを搭載して走らせる実験に成功した。しかし、その発生する騒音の大きさにポープ社の幹部はガソリン自動車の製造を諦め(研究は継続するが)、電気自動車を製造することにした。そして、98,99年の2年間で500台の電気自動車と40台のガソリン自動車を製造した。このポープ社の電気自動車生産能力に注目したのが東部電車業界の有力実業家のW・C・ホイットニーが経営する電気自動車会社であった。そして、ホイットニーはポープ社の自動車部門を買収し、アメリカの主要都市に12,000台の電気タクシー網を作る計画をたてた。そして、99年に実行に移し、コロンビア電気自動車会社を設立した。
自動車部門を売却したポープ社は自動車生産を諦めず、新たにガソリン自動車生産を模索し、他の自動車製造会社を合併して1901年にインターナショナル・モーター社を設立し、自転車産業の斜陽化から1903年からガソリン自動車の製造販売を開始した。しかし、自動車産業への参入者が増え、競争も激化した中でポープ社の業績は悪化し、1907年の不況に耐えられず姿を消した。また、ポープ社の電気自動車部門を買収したコロンビア電気自動車会社も同年に倒産してしまった 。』
小火器生産における工廠方式はミシン製造業、農機具製造、自転車製造においては大量生産という技術に到達していなかったことが分かった、その大きな要因はそれぞれの製品が、誰でも必要不可欠なものではない特殊なものであったからと思われる。その後に誕生する自動車産業は、移動手段の革命という意味で誰でも必要であり、欲する商品であり、大量生産に繋がるのであろう 。
(3)フォードの勃興による大量生産方式の確立
米国の自動車メーカーの発生基盤は、一つは自転車メーカー、二つめは馬車製造メーカー、3つ目はその他の機械メーカー、であり、1895年から1910年に数多くの自動車メーカーが誕生した 。
中西部出身で最も早くデトロイトに進出して初めて大衆車の量産に成功したメーカーがオールズ自動車会社である(現在もGMの1部門としてブランドが残っている)。1897年にオールズ自動車会社を設立し、1899年にデトロイトに移転。当初は高性能の複雑な車を1250ドルで製造販売した。1901年より簡素で操作が簡単な軽量の1シリンダーの自動車を製造することにした。それが重量700ポンド650ドルの「カーブドダッシュ・オールズモービル」だった。最初の年の1901年に400台を売上、翌年には4,000台を売る計画を打ち立てた。しかし、同年に不幸な火災により工場を失ってしまい、リーランド・アンド・フォーコナー社に2,000台のエンジンを、変速機をJ・ダッジとH・ダッジ兄弟に発注するなどして自動車を組み立てるようにした。その結果1901年425台、2年に2,500台、3年に4,000台、4年に5,000台、5年に6,500台を生産し、オールズモービルは世界で初めて量産された車となった。しかし、1905年に大株主スミスとオールズは経営に対する対立をするようになった。オールズは小型車の生産にこだわったが、スミスは高級大型車の生産にこだわり、オールズは会社を去り、レオ自動車会社を設立した。オールズ社は高級車生産を続け、1908年にデュラントのGM社設立に加わった。もし、オールズが小型車生産を継続していたら、フォードがT型車生産で達成した移動組み立て法による大量生産方式に到達しただろうという意見がある。実際にアメリカの技術雑誌「アメリカン・マシニスト」に最も早くその工作機械や組み立て工程の紹介がなされたのはオールズであった。しかし、オールズで用いられていた工作機械はまだ高水準ではなく、本格的な大量生産に移行するには貧弱なものであった 。
東部の小火器製造の工廠方式という技術的伝統を中西部に伝え、自らも中西部の自動車メーカーになったのはヘンリー・リーランドが設立したキャデ・ラックである(現在もGMの最高級車部門として残っている)。リーランドはスプリングフィールド連邦政府兵器廠や、コルト連発拳銃工場で働いた経験を持ち、機械加工における高度な精密性技術を身につけた。その後、ニューイングランドの機械メーカーブラウン&シャープ社(ミシンの製造)に勤務し、1890年にデトロイトに移り、リーランド・フォーコナー・アンド・ノートン社を設立した。やがて船舶用のガソリンエンジンを製造するようになり、オールズ社の大量発注を受けるようになり、量産化への道を歩むようになった。当時デトロイトでヘンリー・フォードの自動車レースの成功に目をつけ、自動車製造を始めた実業家マーフィのグループがいる。マーフィ達は1899年にデトロイト・オートモービルを設立、その後解散し、1901年にヘンリー・フォード社を結成したが、レースでの成功を武器に大衆車生産を考えているフォードと高価な車の製造を考えているマーフィは対立し、フォードは会社を去る。そして、1902年にマーフィはリーランドに工場の管理を任せるようになった。そして、リーランド・フォーコナー工業会社と合併させ、キャディラック社を1904年に設立した。キャディラック社は大量生産の技術的基礎を固めるとともに、量産化と良品質品の生産が矛盾するものでないことを立証した 。キャディラック社は後にGMに売却し、リーランドはさらに高級車を製造するリンカーン社を設立する(後にフォードに売却)。
このように東部の工廠システムの機械工業の技術はそれを学んだ人たちや企業によって、中西部に技術移転されたのである。
大量生産方式を確立したヘンリー・フォードは1882年25歳の時にウエスチングハウス社の可動式蒸気エンジンの操作を覚えるようになり、サービスマンとして働くようになった。1891年にエジソン社Edison Illuminating Companyで働くようになり、1893年にはチーフエンジニアーに昇進し、1896年にFord Quadricycleというガソリン自動車を造り上げた。1896年にフォードは発明家で創業者のトーマス・エディソンThomas Edisonに認められ、フォードは2台目の自動車の製造に取り掛かり、1898年に完成した。
1899年デトロイトの木材で富豪になったマーフィーの資金援助により、エジソン社を辞め、デトロイト・オートモビル・カンパニーDetroit Automobile Companyを設立した。しかし、完成した自動車の低い品質と高い価格にフォードは満足できなかった。そのため、ビジネスは失敗におわり、会社は1901年に解散した。
次に1901年末にウイルスC. Harold Willsの助けによりフォードは26馬力の高性能の自動車を製造することに成功した。この成功によりデトロイト・オートモビル・カンパニーの主要な投資家のマーフィーと他の株主は1901年11月末にヘンリー・フォード・カンバニーHenry Ford Companyを設立し、フォードはチーフ・エンジニアに就任した。しかし、マーフィーはフォードの大衆車製造の方針に満足できず、リーランドHenry M. Lelandをコンサルタントとして採用した。そのため、フォードは1902年に会社を辞任した。このヘンリー・フォード・カンバニーがフォードが去った後マーフィーによりキャディラックCadillac Automobile Companyと社名変更された。
会社を辞任したフォードは80馬力のレースカーを製造し、1902年10月に優勝した。その成功を見たデトロイトの石炭商のマルコムソンAlexander Y. Malcomsonの投資によりフォード&マルコムソン社Ford & Malcomson, Ltd.を設立した。フォードはやっと念願の大衆車の設計に取り掛かることになった。そして、ダッジJohn and Horace E. Dodge達の部品供給により自動車組み立てに取り組んだ。1903年6月にフォード・モーター・カンパニーFord Motor Companyと社名を変更した 。
1903年設立のフォード自動車会社はヘンリー・フォードにとっての3つ目の自動車製造会社である。フォードはこの会社を1907年までは支配しておらず、会社は中価格帯の自動車である。A,B,C,F,K,N,R,型車を製造販売していた。
ヘンリー・フォードは1906年までに米国の需要を「最も必要とされる自動車とは、軽量かつ低価格な車で、十分な馬力の最新エンジンを装備し、最高の材質によって建造された車である。その車はアメリカの道路を走るのに十分な馬力があり、車体を壊すことを恐れずに乗客を運ぶことができなければならない。」 と明確に認識していた。
当時のN型車はその条件を満たしているという意見もあり、社内で他の取締役たちと争い、1907年にヘンリー・フォードは会社を支配できる株式を取得し、彼の理想とするT型車の製造に取りかかった。
フォード社は後で述べるように大量生産方式を完成させたのだが、1903年にフォード社、または、自動車産業をめぐって大きな出来事があった。それはロチェスターの特許関係の弁理士のセルデンGeorge B. Seldenが1872年に2サイクルエンジンを設計したブライトンGeorge B. Braytonが設計した2サイクルエンジンにヒントを得て、1879年に液体炭化水素を燃料とする動力機関、動輪とエンジンを切り離す機構、そして操舵機構という3つの要素を合わせた「道路を走る機械」という特許を申請し、実物の車は製造しなかったが1895年に特許を取得していた。この特許をエレックトリックビークル社のホイットニーが電気自動車の立場を有利にするために1899年に買収し、1900年にウイントン社を特許侵害で告訴し勝利した。そして、中西部自動車製造会社の10社がホイットニーとのロイヤリティ支払いの交渉のためにALAMという団体を設立した。ALAMはセルデン特許の使用を許可することができる排他的な特許独占団体の権限を得て、段々と自動車産業に参入する企業を制限するようになる。そして、フォード社と法廷で8年越しの係争を行い、フォード社は1審で敗れるが、1911年1月9日に2審でフォードは「ガソリン車の基本的な構造技術は社会的な発明でその成果はひろく解放されなければならない」という趣旨で歴史的な勝訴を治める 。
T型車導入の2年前の1906年まで、フォード自動車工場は貧弱な設備しか持っておらず、近隣の同業のパッカード工場、ランシングのランサム・オールズ工場とは比較にならないほど貧弱であった。当時N型車製造のために工作機械のセールスマンのウオルター・E・フランダースと出会う。フランダースはバーモント州生まれで、シンガー製造会社の従業員として量産型製造機械工の仕事を身につけていた。フォード車がベルヴュー・アベニューの工場を建設するにあたって、フランダースは工作機械などのセールスマンとしてエンジン製造方法の具体化を支援した。また、フォードに対して、工場長としてマックス・F・ワラリングを雇うことを進言した。
ワラリングはインターナショナル・ハーベスター社(農機具のマコーミック社が1902年にJPモルガンに買収され社名を変更した)のガス・エンジン生産の工作機械製作監督等の経験があり、1906年からフォードで働きはじめ、その年の8月にはフォード工場2社の統括生産責任者の地位についた。
フォードはこのフランダースとワラリングと出会ったことにより、互換性部品と専用工作機械の仕様という工廠方式に触れ、部品の互換性という考え方を学んだ。
この2名がフォード工場で行ったことは、種類別の機械配置ではなく、部品の加工順序に従って工作機械を配置したことであった。また、長期の資材購入と納入業者の在庫保持を義務付け、フォードの工場は資材在庫を10日分以上持たないようにした。チャールズ・ソレンセンはフランダースの貢献を「自動車事業とは3つの技法、すなわち、資材購買の技法と、生産の技法、販売の技法が融合なものだという認識を生み出した。そして、特に工作機械を再配置したことがフォードを大量生産の方向へ導いた」としている。
フォード社はピケット・アヴェニュー工場を拡張し、フランダースとワラリングは工作機械の配置と工場全体の資材に流れを洗練する。その際に単純な重力滑り台が工場内の工作機械と工作機械の間に設置された。これにより工場内の資材の流れが促進されることになった。フランダースとワラリングは2年もフォード社に在籍せず、他の自動車会社にスカウトされてしまったが、フォード工場の従業員は工廠方式の基本を学ぶに十分な時間があり、かつ、工廠方式だけにこだわることがなく、常に新しい生産方式にチャレンジすることができた 。
有名なThe Model T は1908年10月1日に公開された。その仕様は当時の雑誌「ネーション誌」が予測した大衆車の仕様「安価で標準的な車が製造でき、その車が機械に対する適性を運転者に要求しない単純なタイプで、費用がかからずに走行できれば、すぐにでも自動車市場は際限のないものとなるだろう」に合致していた 。
そして、1908年3月19日の発表会に自動車販売の代理店は高く評価し、生産が始まる前に1万5千台の受注を抱えた。そして、T型車の生産開始から第1次世界大戦終結まで、フォード自動車会社の売上と利益は劇的に伸びたが、利益をどんどん研究開発につぎ込んでいった。才能に恵まれた20名近くの機械職工に決まったやり方での開発を強制せず、自由に開発をさせた。その結果、生産上の実験、ゲージ製作、取り付け具の設計、工作機械の設計設置、工場レイアウト、品質管理、資材運搬、等すべての面で新しい考え方を生み出した。
ヘンリー・フォードは1909年に、フォード自動車会社は今後、T型自動車のみを生産し、その3種類の車種のシャシーをすべて同一にすることを決定した。新工場の初期においては工廠方式である、専用の工作機械と工程ごとの機械配置を取り入れていた。そして、ソレンセンとマーティンは工場用の作業計画システムを考案し、生産速度を綿密に管理するようになった。
フォードの技術陣が取り組んだのは組み立て作業だ。当時の部品組み立ては各作業台まで部品を運び、その作業台の上で組み立てを行っていた。しかし、1906年には重力滑り台方式の部品移動と取り入れていたように、フォードは部品が自動的に作業台に来る方法を模索し出した。1914年、15年頃に真剣に試行錯誤を開始した。そのフォード技術陣の目に留まったのが、コンベアー方式の作業工程だった。
そのヒントになったのはコンベアー方式の鋳型運搬機、シカゴ食肉加工所のコンベアー方式、製粉工場のコンベアー方式、缶詰工場のコンベアー方式であった。
コンベアー方式の鋳型運搬機はウエスチング・ハウス社が1890年にすでに実用化していた鋳造の鋳型運搬機で使われていた方式だ。
シカゴの精肉業者による解体ラインの作業は1906年にアプトン・シンクレアの「ジャングル」で公表され一般の関心を集めていた。フォード社エンジン部門長のウイリアム・クランはスイフト社のシカゴ地区肉処理場を見学し、この手法はモーターの製造に採用できるとして工場長のP・E・マーチンに提案した。
クランのフォード自動車会社勤務前は、1904年にデトロイトのヒュッテマン&クレーマー機械会社で醸造用の穀物運搬エレベーターなどの機械式コンベアーを修理する機械工として働いた経験を持っている。そして、機械式コンベアーを製造しているヒュッテマン&クレーマー機械会社でクランと同僚だった人(後にフォードの社員となる)がそのカタログをヘンリー・フォードに見せて、フォードが興味を示した。
醸造所では18世紀後半にオリヴァー・エヴァンズが自動小麦製粉工場を開発した後、すぐに機械式コンベアーが使われていた。そして、ミネアポリスは19世紀後半までに世界中の製粉業の中心地になっており、これらの工場で使われていた自動運搬設備の精巧さは世間に知れ渡っていた。
さらにフォード社の工作機械専門家のオスカー・C・ボーンホルトは1913年にはフォード工場の工程順配置を食品缶詰機械の配置と比較していた。缶詰機械は工程順に配置されていただけでなく、加工対象物を労働者のところに運ぶ自動コンベアー方式によりその機械が連結されていた。
このようにコンベアー方式の鋳型運搬機、シカゴ食肉加工所のコンベアー方式、製粉工場のコンベアー方式、缶詰工場のコンベアー方式、等は後のフォードのコンベアー組み立て方式に大きなヒントを与えた。これ以後、加工対象の物はすべて自動的に移動させ、人はすべて停止したままにするという工程の変化が始まった 。
この工程を最初に採用したのは1913年のフライホイール磁石発電組み立てラインだと言われている。作業台での磁石発電機組み立ては1人1個につき20分の生産時間であったが、コンベアー組み立て方式の採用により、当初1人1個につき生産時間は13分10秒に短縮され、コンベアーラインの改良に伴い、1人1個につき5分の生産時間という劇的な生産性の向上をもたらした 。
この劇的な生産性向上はフォードの技術陣を奮い立たせ、あらゆる生産工程でのコンベアー組み立て方式の採用が試みられるようになり、1913年から14年にかけてほとんどの工程で採用され、最終的にシャシー組み立てラインにも採用された。その結果、フォード社のT型生産台数を見てみると1912年には年産82,388台であったのが、13年には189、088台、15年には394,788台まで急増した。そして、注目するべきは1912年の価格600ドルに対し、1915年の価格が440ドル、1916には販売価格を$360まで劇的に低下させた。この販売価格は現在の価値に換算すると$7,020ドルに相当する 。
このコンベアー方式の組み立てラインによる製造工程の生産性の向上を、販売価格に反映するという好循環によりフォードモデルT型のマーケットシェアーはピークの1921年には55%にまで達した。
モデルT型の塗装は黒しかないという徹底した絞り込み生産であり、1927末の総生産台数は15,007,034台であり、この記録はその後45年間守られた。この生産台数は最初の販売から19年間で達成されたのだった。
アメリカン・システム(工廠方式)が実現した専用工作機械による互換性の製造方式が色々な業種に技術拡散し、その技術がフォード社の自動車産業に収斂し大量生産方式を完成したことが分かった。
産業革命は百年に一回の革新であり、新しい産業を作りだすのにそのような革命的な技術は常に求められているのではない。産業革命が第2次産業を生み出したが、産業革命が生み出した技術革新は第2次産業内だけに留まらず、他産業へも技術拡散し、新たな技術革新をもたらしたのである。
第3章 外食産業の成長を支えるフランチャイズ・システム
フランチャイズ・システムの歴史を見ると、大量生産方式により大量販売方法を必要として、シンガーミシン社、農機具のマコーミック社が導入し始めたことがわかった。その後、さらに大量生産方式を成功させたフォードモータース社やGM社が自動車の販売方式としてフランチャイズ方式を完成させたことがわかった。自動車産業におけるフランチャイズ・システムの完成は米国におけるフランチャイズ・システムに脚光が浴びるとともに、加盟店の保護の観点が明確に芽生え、後の、ビジネス・フォーマット型のフランチャイズ・システム が誕生することになる。また、外食の分野に導入し、ファスト・フード業の成長に大きな影響を与えた。
本章では、ファスト・フードの成長を支えたフランチャイズ・システムの歴史発展をさかのぼって、各業界におけるフランチャイズ・システムはどのように構築してきたか。そして第2章で述べた大量生産の確立とフランチャイズ・システムの関連性を明らかにし、さらに、どのようなきっかけでファスト・フードを誕生させ、成長を支えてきたかを明確にする。
(1)フランチャイズ・システムの起源
何らかの形でフランチャイジジングが現れたのは数百年も前にさかのぼる。ヨーロパ中世において教会関係の高職者などの有力者が、租税収入や特別な税金を徴収する権利をそれぞれの地方の政府(フランチャイザー)から許可され(つまりジーとなり)、その代わりにジーは徴収ジムそのほかの必要なサービスを遂行してザーにまとめて金を支払った。この形式は1562年にトレントの市議会が税金の徴収方法を改正することを要求し、政府の庇護を受けるシステムに終止符をうつことになり消滅した。
18世紀から19世紀になると、色々な種類のフランチャイズがイギリスにおいて国王あるいは立法府によって許可されるようになった。その許可には一時的な現金の支払いとザーに対する継続的な義務をジーは負う代わりに、いろいろな取引や業界における長期間の独占権を与えられることが多かった。
米国においては南北戦争後にシンガーミシン社とマコーミック社が同社の製品を販売する形態としてフランチャイズ・システムを取り入れ、100年以上の歴史を持っている。しかし、シンガー社とマコーミック社の実験とも言えるフランチャイジングシステムは、その後20年のうちに消滅し現在ではあまり語られることがない。
今日のフランチャイズ形態は1910年以後の自動車会社と30年代の大手石油会社によるフランチャイズ�システムの採用まで再び拡大することはなかった。
真のフランチャイズ�ブームはフランチャイズがサービスとトレード・マークの分野で増加した50年代にいたって初めて開花した 。
(2)米国におけるフランチャイジングの発展
①フランチャイズ・システムにおける時代的背景
米国はヨーロッパからの移民で出来上がったが、広大な国土は地域の分散化を引き起こし、ビジネスはそれぞれの地域での小さなものであった。しかし、1830年になると人口は増え、同時にイギリスで1760年代から1830年代までという比較的長い期間に渡って漸進的に進行した産業革命の技術的な恩恵、機械化、動力化が米国に渡り大量生産という技術になり、全国的なビジネス・システムを誕生させるようになった。
産業革命によって誕生した蒸気を使う、蒸気船や鉄道は広大な全国に製品を短時間で配送をすることが可能になり、ビジネスの地域を拡大させた。1800年にはニューヨーク市からミシシッピー川までの旅行にはおよし5~6週間を要したが、南北戦争(1861年~1865年)の直前には3日~5日まで短縮し、輸送費も大幅に下がった。また、電信等の発明により情報は全国に短期間に伝わり、1つの企業がビジネスを可能にする地域を拡大した。
1800年代の初頭には流通面においても重要な変化が起きた。卸売業者の支配的勢力と製造業者の販売進出の2つである。1800年代の初めには製造業は大量生産の実現を模索し出しており、自前の流通チャンネル構築に多大な資金を投入できず、工場での大量生産に集中せざるを得なかった。卸売業者は1800年代を通して、製造業者のできない流通を担う重要な役割を担っていた。
しかし、既存の流通業者が製品を効率的に販売する意欲がなかったり、できなかった場合もでてきた。また、大都市中心部が発達し人口が集中し出したり、生産材メーカーの製品を大量に扱う小売業の出現もあり、1840年代には製造業者が自ら卸売業も行うようになった。この場合、卸売業者を使うよりも流通コストが低下するのであった。
製造業者が流通に乗り出す理由はその製品の特徴にあった。1800年代の色々な技術革新は新しい製品を生み出したが、製品によっては既存の流通チャンネルには適合しなかった。
ミシンや刈取機(農機具)のように専門的なサービスが必要な場合は、製造業者は自ら販売チャンネルを確立しなければならなかった。
自ら販売チャンネルを確立する場合、直営の販売店組織を構築するか、独立の代理店組織構築という2つの選択がある。直営販売店組織の方がコストが安ければそれを選択したが、多くの場合、製造業者は独立代理店の方が効率的であると認識をしていた。
独立の代理店は販売コストと信用リスクを負担するので、製造業者は自らコストを負担することなく広範囲な販売網を素早く構築することが可能であった。しかし、独立代理店の場合、製造業側からの販売に関する効果的な統制をうまく行うことができないと言う欠点を持っていた。また、独立代理店は複数の製造業者の製品を扱うことが多く、一つの製造業者の製品販売に専念できないという問題も抱えていた。
そのため、製造業者は設立後間もなく市場が分散している場合には、独立代理店を使って販売網を構築し、市場が集中したり、製品知名度が高く経営資源が豊かになると、直営店舗に切り替えるようになった。
大量生産による商品特性の専門化がおこなわれるようになると、代理店も独立代理店から専属的代理店という形態が発生した。専属的代理店とは特定の地域で製造業者の製品を独占的に販売する権利を保持する業者で1830年に米国で初めて誕生した。そして、代理店が販売する製品とその専門知識を製造業者に依存し、設備投資が多額になると代理店の行動自由度はその大半を失い、フランチャイザーとフランチャイジーという関係に変化するのであった 。
②マコーミック社の販売組織化三段階
マコーミックによる刈取機の実演から、マコーミック・ハーベスティング・マシーン社を核としたインターナショナル・ハーベスター社設立までの71年間に、販売の組織化は3つの段階があった。
1)第1段階 ライセンス契約による拡張(1843年~49年)
サイラス・マコーミックは地元市場以外に進出するため、他の製造業者に対するライセンス契約を実施し、マコーミック刈取機の製造と販売に関する独占権を地域ごとに販売した。このライセンス権の金額は固定金額や売上台数比例というもので、1844年までに10州において販売した。
マコーミックは当初から米国全土に販売を考えていたが、当時の輸送コストは高く、時間がかかるので、マコーミック自ら製造販売することは不可能であった。また、収穫期に必要な刈取機を時間かけて輸送していては、収穫の時期を逃すのであり、それを避けるため、地元の製造業者にライセンス権を与えて、製造販売をしたのであった。
2)第2段階 本社との直接契約に基づいた独立代理店経由の販売(1849年~71年)
マコーミックはライセンス契約により米国全国に間接的ではあったが刈取機を販売することに成功した。しかし、ライセンス契約によって製造された刈取機の品質はよくなかったり、ライセンス契約者の販売意欲に欠けるという問題を抱え出し、ライセンシー販売から脱却する要素が生まれてきた。
また、40年代には鉄道網などの整備により全国に輸送することが可能になり、農機具産業は十分に成熟し、農家にとって必需品となった、という環境の変化が起きたこともライセンシー販売から脱却を図るきっかけとなった。
そこで、販売したライセンスを買い戻し、自社生産した刈取機を卸売業者を通して全国に販売するようになった。卸売業者は季節商品である刈取機を販売するため、他の生産会社の別製品を売るのは自由であり、マコーミック社は厳格な管理をしていなかった。
マコーミックの製品の刈取機は定期的に改良が施されるなど、販売のためにはその使い方の説明と、購入後の迅速な修理などのアフターサービスが必要不可欠であった。しかし、卸売業者はマコーミックの要求する専門知識とやる気に欠けていた。そこで、マコーミックは特約代理店(小売販売店)に直接刈取機を販売することにした。これによりマコーミックのブランド認知度が高くなり、高単価の刈取機を販売することに成功した。また、特約代理店により、マコーミックと農家の距離感がなくなり、親しみを持たれるようになった。
そして、刈取機市場が拡大し、代理店の数が増加するようになると管理の問題が発生し出したので、マコーミックは1859年に本社内に代理店本部を設置し、すべての代理店に対して統一的な支持と情報を送るようになった。そして1860年頃には販売代理店の位置づけを独立の代理店ではなく、代理店本部の強い管理の元に働くチームの一部にするようになった。
3)第3段階 本社と小売代理店の分権的構造(1871年から1902年)。
1871年のシカゴ大火の後、販売本部が担ってきた戦略の実行責任と日常の活動責任を米国とカナダの約40の総代理店へ移管した。その後、長い時間をかけてそれらの総代理店を会社の支店へ移行した。そして、厳格な管理の導入とともに、操作方法の教育や、サービスなどの、支援を代理店に積極的に行うようになり、代理店とマコーミックの関係は深いものになっていった。
マコーミック社のケースは製造から販売にいたる垂直統合が限界に達した時には、大規模製造業者と多数の小規模小売業者との間に共存的な関係が発生することを示している。しかし、農機具は季節的な製品であり、マコーミック社の代理店は農機具の販売に特化できず、製造業者と代理店の関係は、代理店とフランチャイズ店との中間の存在にしか発展しなかった 。
③シンガー社の販売組織三段階
シンガー社の販売の組織化も3つの段階に分かれる。
1)地域独占販売権の販売(1850年~1856年)
シンガーはよい出来のミシンを作ってもミシンが売れるとは限らないことを知り、1850年11月7日に「米国内のあらゆる市や町での代理店(独占契約の)を求む」という内容の最初のミシン広告を出した。しかし、代理店の獲得による販売網の拡張は進まなかった。シンガー社の新しいパートナーの弁護士エドワード・クラークはシンガー社の地域独占販売権を譲渡することにより市場の拡大を図ろうとした。この地域独占権の譲渡はサイラス・マコーミックと同様の資金的に余裕がないとい言う理由からであった。この地域独占権の販売は、流通システムを構築するよりも、資金集めの手段としてであった。1851年から1852年の苦しい時期において地域独占権の販売で12000ドルの収入があった。
この経営手法にシンガー社経営者のシンガーとクラークは満足し得なかった。それはシンガーミシンの性能や品質が他の競合より優れていおり、商業的にも十分な成功を収めると思っていたからである。つまり、地域独占権の販売よりもミシンの販売の方がより収益が上がると思っていたわけだ。
弁護士のクラークは地域独占権の契約に不満を持っていた。地域独占権は販売するミシンの特許の期間内であり、そのため、代理店の事業活動をコントロールできなかった。初期の契約条項には代理店の販売台数の規定や、販売価格の取り決めがなかった。また、販売テリトリーも明確でなく地域の境界では代理店同士で価格競争に陥ることもあった。クラークとシンガーは長期的には販売組織の変革の必要性を感じだした。
2)パテントの共有と大衆製品の販売(1856年~1877年)
1856年に2つの出来事があった。一つはミシンン連合の結成である。ミシン製造の主要パテントを所有する4つの会社が集まり、ミシンに関するすべての主要なパテントを管理するというパテント・プールで会った。これにより、ミシン製造会社同士のパテント法廷闘争の必要がなくなり、ミシンの製造と販売に専念できるようになった。また、パテントを購入する会社からの収入も4社にはプラスとなった。
2つ目はシンガー社が低価格の大衆消費者向け製品を販売したことである。1856年にタートル・バックというミシン台を兼ねた木製箱に収める形式の、小型で安価なミシンの発売を開始した。
この2つの出来事によりシンガー社のミシン製造は飛躍的に伸びて、ミシンを大衆消費材として販売するための新しい販売方式の確立が必要になった。
それは、消費者信用の供与、消費者への信頼ある取扱説明とサービスの提供、シンガー社のミシンを他社のミシンに差別化する政策、の3つであった。そこで、シンガー社は会社所有の店舗を設立するとともに、短期契約で専属的代理店を採用することにした。
この政策は成功し、1853年~1855年のミシンの販売量は年間約850台であったが、1856年には2,500台を超えるようになった。
シンガー社は1851年に最初の代理店契約を結び、その1年後にはボストンに最初の常設支店を開設した。1856年に地域独占権の買い戻しを行い、都市部では会社所有の支店や総代理店を中心とし、農村部では短期契約を交わした地域代理店及び巡回代理店を核とした販売組織の構築を開始した。
1850年代~60年代年代のシンガー社は支店システムの試行錯誤を行い、支店所在都市を除くミシン販売は地域代理店に依存していた。この時期にはシンガー社は特約店に対して厳格な管理よりは販売力の拡大を重視していた。競合ミシン会社を扱う会社は代理店にしなかったが、競合しない商品を販売する会社は代理店に採用した。特に、経験と人脈の豊富な衣服商人と、社会的信用が高い聖職者の夫人を優先的に採用した。
1860年代の代理店契約の契約書は1ページ、4項目しかなく、本社と販売組織の希薄な関係が見える。シンガー社は代理店の業績や帳簿の監査権は持っていなかった。また契約期間の定めもなく、両社のどちらからも解約できた。
1870年代に特約店に対する製品流通の調整と製品販売、及び製品修理の支援を行うために支店設立の展開をした。これは都市のように高度に集中したミシン市場では会社所有の支店は利益がでるし、自社製ミシンの広告塔の役割を果たしたからでもある。1850年代~80年代にはミシンメーカーは品格と安定の外観を示すために主要支店には大規模なショールームを設置した。シンガーは57年にニューヨーク本社開設と同時に豪華なショールーム「ニューヨークという素晴らしい町に、白大理石の館、モダンアートによって飾り立てた殿堂」を設置した。
支店を開設していったが、シンガー社の56年~77年の間は代理店と支店に対する監視はあまり厳しくなかった。
3)販売組織の厳格な管理(1877年から1890年)
アイザック・シンガーが死去した1年後の77年にシンガー・マニュファックチャリング社に改組し、初代社長のエドワード・クラークは販売組織全体を本社の厳格な管理の下に置き始めた。
60年代から70年代にかけて、ミシンの価格は下落していった。シンガーミシンの最初のモデルは125ドルで売られたが、66年までに現金価格で60ドル、77年には30ドルまでに低下した。そのため、クラークは販売コストの低下の必要性に迫られ、販売組織全体を本社の厳格な管理下に置くことにした。
クラークの計画は完成までに7年間必要であった。その結果、2つの変化がもたらされた。
一つは販売量が少なく会社の支店として運営できない地域を除いては、独立代理店は会社所有の支店に変換した。2つ目は特約店経由の販売を続けた地域でも、シンガー社は特約店の活動に対し極めて厳格な管理を行い、特約店はシンガー社の社員とほとんど区別できなくなった。
このシンガー社の組織再編の手本となったのはシンガー社英国総代理店のジョージ・ボールドウイン・ウッドラフの開発したシステムであった。ウッドラフは卸売業者経由の販売をやめ、国中に独立及び直営の小売店をくまなく展開した。流通経路から卸売業者を排除したために販売量が高水準に保ちながら、中間マージンを省けるため販売コストも削減できた。ウッドラフは1876年に厳しい販売競争の結果、シンガーミシンの基本モデルの販売価格を25ドルまで下げざるを得なかったが、年間に5万台を販売し、146,000ドルの利益を上げることができた。
それに対して、卸売に依存したドイツ代理店のジョージ・ナイドリンガーはウッドラフと同じ販売量から得られた利益はわずか95,000ドルであった。
この英国の成功を米国の販売方式に導入するために、厳格な店舗展開と支店の管理を実施することにした。支店の組織化、報告書類のあり方、支店の設立基準、等を厳格に定めた。支店と総代理店は統括事務所と名称を変え、経費などは人口と販売予定量により定めた。ニューヨーク本社を設置したころは豪華なショールームであったが、簡素で実務的なショールームにするなどの経費削減が試みられた。
このように経費を削減できる直営の支店化を推し進めながらも、農村市場等では売上が低いため、代理店の方が経済的に安く付き、シンガー社は2つの販売方式を維持せざるを得なかった。そこで、シンガー社は1881年に販売費用のコストダウンを目指し、統括事務所、支店、代理店を巡回する監査員制度を設け、より厳格な管理を行うようになった。
当時、代理店から支店に転換するケース(独立経営者が店舗を会社に売却し、自ら支店の管理者となる)があったが、独立代理店時代よりもモチベーションが下がり、売上が下がるという問題が発生していた。これが、独立代理店を完全に廃止できなかった大きな理由である。シンガー社は独立代理店を維持しながら、それを監査制度により厳格に管理することで、会社のコントロール下に置くことに成功した。それが本格的なフランチャイズ方式導入に至らなかった理由であろう 。
④シンガー社とマコーミック社の問題
製造業者が全国にビジネス展開をする時に使う代理店システムに関にして、マコーミック社とシンガー社のやり方は全く異なっている。
マコーミック社の場合、農機具市場は巨大であるが、季節的な特性を持っており、販売が全くない時期があり、代理店はマコーミック社以外の製品を売らざるを得ず、代理店を厳格に統制することはできなかった。
しかし、シンガー社の場合、伝統的な代理店システムは比較的に早く捨て去り、人口密度の高い都市部では会社所有の支店、人口密度が低い農村部では厳格に統制された特約店に置き換えた。
このようにシンガー社とマコーミック社の代理店システムの発展プロセスは異なっているが、両者とも当初は代理店システムを採用し、その後に販売組織の修正を行ったのである。両社にとって代理店経由の販売は全国市場へ製品を売り出す効果的な手法であった。コストがほとんどかからず、管理が容易で、しかも素早く構築ができた。しかし、製品が全国市場で販売される段階になると、両者とも販売の統制強化を試みると同時に、販売費用削減という矛盾を抱えた。この二つの矛盾が解決するのは会社所有の支店による販売方式を中止して、代理店方式に移行した時であった。
マコーミック社は独立代理店を買収することは高くつくので、買収せず卸売の管理をすることにした。シンガーは市場の大部分が都市地域内に集中しているのでそれが可能であった。両社とも販売組織に対して、所有しない代理店による厳格な統制に成功した。これは独立代理店が準独立特約店へ変貌している過程となった。
マコーミックやシンガーが代理店に対して影響力を増大させることができた理由は、寡占化の進展によって、専門知識を持つ独立販売店にとって、取り扱える製品を製造するメーカーの数が少なかったからである。また、マコーミックやシンガーの大量生産への取り組みを見てみると、マコーミック社は創業時1840年、工廠方式を採用し互換性部品の製造に成功するのは1879年と39年かかっており、79年の総生産台数は18760台に過ぎなかった。
シンガー社の創設は1851年で工廠方式採用による互換性部品の製造に成功するのは1882年と31年かかり、82年の総生産台数は50万台である。
それに対してフォード社の場合にはモデルT型車を発表した年1908年には5986台を生産し、そのわずか8年後の1916年には577,036台を生産する急成長であった。
つまり、マコーミック社やシンガー社の場合には長い年月をかけて、大量生産を実現しており、その間に販売網の構築にはじっくりと取り組むことができた。そのため、マコーミック社やシンガー社はフランチャイズ・システムを正確に認識せず、完成させる必要もなかった。また当時、フランチャイズ・システムの明確な定義や概念がない時代という歴史的な面からも、確固としたフランチャイズ・システムを確立できなかったのだと思われる。しかし、急成長するフォード社の場合には急速な販売網が必要不可欠となったのだ 。
(3)フランチャイズ・システムの確立
マコーミック社とシンガー社の創業からフォード車の創業までの間、約60年間で米国は発展途上国から産業国家への移行をほぼ完了させていた 。1900年代初頭までに、全国市場、大量生産、大規模企業、及び現代経済に適合した多数のサービスが確立発展していた。
特に、全国市場の開拓に貢献したのが1880年までに基本的に完成した鉄道網である。また、1910年までに登録されたトラック台数は1万台超であったが、1920年には100万台にまで増大し、舗装道路も総延長は35万マイルを超えており、製造業は鉄道網や幹線道を使って全国に生産物を配送することが可能になっていた。
また、大企業を支援するサービス面では、広告や市場調査などの専門的でプロフェッショナルな知識を提供する企業が誕生した。
また、人口動態での変化がある。1860年に米国の人口のうち都市部に住んでいたのは20%未満であったが、1920年には50%の人口が都市部に居住するという、人口の都市集中化が起こった。1800年代後半に誕生した量販店である百貨店、チェーンストアー、通信販売会社は1900年代に十分発達した。鉄道網や幹線道路網により実現した全国小包配送サービス1により、1872年にはモンゴメリー・ウオード、1887年にはシアーズ&ローバックなどの通信販売会社が誕生し、後に店舗を構える量販チェーン店となった。
これらの量販店は従来の小売業者にある程度とってかわったが、サービスと修理を必要とする複雑な製品を販売することはできなかった。つまり、自動車のように点検や修理のサービスを必要とする特殊な商品については量販店や伝統的小売業者がその流通を担うことができず、自ら流通システムを作り上げる必要があった 。
このような環境の中で、創業して間もない1903年にはすでにヘンリー・フォードは大量生産と全国に対する大量販売を考えていた。事実フォード社は創業後2年以内にボストン、シカゴ、ニューヨーク、セントルイスに販売支店事務所を開設した。
1900年代初頭には自動車産業の米国経済に占める割合は少なかったが成長部門であった。1900年までに商業生産の段階に達していたのは、ランソン・E・オールズだけであった。1902年において自動車を商業生産していたのは12社であったが、1910年までには52社に増加した。しかし、その8年間の間に600社が自動車生産に参入し、そのほとんどが姿を消している。1923年までに自動車産業は年間400万台の生産と年間25億ドルの販売額に達し、生産が米国全産業中1位となった 。
急成長する自動車産業を支える技術面ではアメリカン・システム(工廠方式)が実現した専用工作機械による互換性部品の製造方式が1900年までに技術拡散し、武器製造業、ミシン、農機具、自転車、等の製造業で採用され、これらの製造業に対して専用工作機械を供給する製造会社もたくさん設立されていた。また、職業専門学校と他産業での経験により、必要な装置を設計する高度に訓練され、経験豊富な技術者が存在していた。
1903年~07年までのフォード社の流通システムは1880年代におけるマコーミック社と類似していた。自動車も自動刈り取り機(農器具)と同じく季節商品であった。当時の自動車は屋根のないオープンカーが中心であり、当時は冬の寒い東部に都市が多かった自動車の販売は冬季には急速に落ち込んでいた。そのため、自動車の販売に専念できる特約店は存在しなかった。
当初の自動車産業は製造する資金の調達に困るような状況であり、販売に振り向ける資金はなかった。そこで、生産面では部品供給業者に部品在庫責任を負わせ、販売面では代理店を使い、注文時に手付金を受け取り、車の配送時には現金払いを要求した。代理店はその費用供給を背負い、メーカーに生産を継続させる財源を供給した。その代りフォード社は代理店に製品の15~25%の割引を行った。当初はそれらの代理店や特約店に対する規制は緩かった 。
しかし、1911年になるとT型フォードは成功をおさめ、フォード車代理店の価値が増大し、生産量も高まり、大手代理店や特約店に対しフォード製品だけの専念を要求するようになった。自動車のサービスと修理のニーズと、企業の標準化と組織化へのニーズから、特約店に対する統制強化に乗り出した。1907年に会計士で能率専門家のノーヴァル・ホーキンスを採用し、販売部長に任命した。ホーキンスはフォード社の販売方法を標準化し始め、まず、支店組織を拡大し1907年末までに11の販売支店を稼働させた。また、支店管理者に対して、本社のきめ細かい指示をだすようになった。支店は自らサービスや販売を行うとともに、代理店や特約店の監視を行うことになった。
支店の下に置かれた特約店とは、標準年間契約を導入し、自動車の購入台数を基礎とする現金手付金の義務付けをする契約書を締結した。この契約により、販売拠点の所有という財政的、組織的な負担なく流通の実質的統制をおこなうことが可能になった。
特約店はこの契約書の義務と引き換えに、明確に定めた地域における独占契約権を得た。特約店は車を定価の15から25%引きで購入し、フォード社が定めた価格でのみ販売しなければならなかった。また、月間割り当て台数の設定と、ショールームと試乗車、修理工場設置、必要な部品在庫、を義務付けた。その代りに、フォード社は都市部を除く特約店に年間100台以上の販売可能な地域を与えた。ただし、この地域以外の顧客に販売した場合には契約解除をするようにした。そして、1907年頃から支店管理者は特約店が会社の設定した基準を遵守しているか、巡回員を派遣して厳密な監査を行うようになった。
この1908年~09年の特約店契約では特約店はフォード自動車と完全に独立した存在であると定めた。それは、会社が特約店の活動に関する法的責任と、フランチャイズ特約店の存在する州における訴訟の2つを逃れるためのものであった。
1909年から10年のフォード社の販売台数は二万台以下であったが、1913年から14年には約25万台、1916年から17年までには70万台を超えた。
1916年にはフォード車は流通の改善に目を向け、2つの方策を模索した。一つはシンガー社のように都市部においては会社所有の小売店で、未開拓市場は代理店を利用する。もう一つはマコーミック社のように特約店を通して製品の卸売りに専念するというものであった。フォード社は最初シンガー方式を採用しようとしたが、創業者のヘンリ・フォードの「得た資金は製品の改良に振り向ける」という思想の元に、会社所有の小売店による販売から一切撤退することになった。そして、フォード車はフランチャイズ特約店を通した販売に専念するようになったが、当時のフォードのマーケットシェアーは高く、需要は常に供給を上回ったので、フォード車のフランチャイズ特約店に対する態度は高飛車なものであった。
1920年代初頭に入るまで車の需要は供給を上回っていたが、22年頃から42年にかけては逆に生産能力が需要を上回った。さらに不況のために消費が低迷しメーカーと代理店の間の関係がぎくしゃくするようになった。
①自動車産業におけるフランチャイズ・システムの3段階
1)自動車産業の勃興期(1901年~1907年)
自動車産業の勃興期は自動車産業が台頭し始めた1901年から1907年である。自動車産業は大量生産方式の確立に対応する大量販売の組織としてのディーラーシステムやフランチャイズ・システム確立が産業誕生当初の早い時点から必要とした。
しかし、高額な耐久消費財としての自動車産業が誕生してからわずか10数年で大量生産方式が可能になったことで、最初から、自動車産業の要請にこたえるように整備されたディーラー組織やフランチャイズ・システムが存在しないままに、自動車産業は販売流通に取り組まなくてはならなかった。
自動車産業の前に誕生した自転車はミシンや兵器製造業者に関連し部品の互換性等の面で、初期自動車部品との関連が強く、販売面でも自動車に大きな影響を与えた。また、販売面でも自転車の販売で使った、自転車レース、自転車ショー(展示会、のちの自動車ショーへの影響が大きい)、販売店での実車の展示、などの技術は自動車販売でも全く同様に使われた。
急成長した自転車産業はあっという間に自動車産業にとって代わられたが、自転車の販売業者はその販売方法の技術を生かすべく、自動車販売に転身を図り、次第にディーラーになっていった。また、GMの創業者W.C.デュランは自動車産業に転じる前は、馬車の製造会社を経営しており、その経験を生かし、馬車の販売網を通じてビュイックなどの自動車販売を進めた。
しかし、当時の金融機関は新しい産業への融資に慎重であり、ディーラー網への貸し渋りをしていた。当時の自動車の販売ニーズは高く、金融面の困難にもかかわらず、ディーラーへの参入は活発であった。
当初においては、販売面においてメーカーと代理店、ディーラーの間にディストリビューター(卸売)が存在したり、メーカー直営の支店が存在したりして混沌としていた。それは当時のメーカーの資金力が弱く、車の在庫負担や遠隔地の代理店やディーラーを探す機能をディストリビューターが担ったからである。
しかし、10年以降になると自動車メーカーが淘汰され寡占化すると共にメーカーの財政的な基盤が強くなり、ディストリビューターの必要性が低下し、ディストリビューターはメインディーラーになるか、自動車販売業から撤退するかを選ばなくてはならなくなった。
1908年から10年の間に代理店やディーラーの契約において、ディーラーに排他的な販売権利を与える、つまり、フランチャイズ契約に明確に切り替わっていった。このフランチャイズ契約は当時のメーカーの力の増大とともに、メーカーに一方的に有利な内容であった。
2)フォード社の一方的に有利の特約店契約(1907年~1937年)
1907年‾1937年の間、特約店はフォード社に依存し、フォード社は小売店舗を実際には所有せずに厳格な統制を行うことに成功した。この30年間の関係は主人と召使の関係と評することが適切である。特約店は会社と対等な条件で交渉することができない状態であった 。契約はフォードが一方的に拒絶できるようなもので、フォード社が巨大になるにつれて契約条件は特約店にとってますます不利となった。
特約店に対してフォードが強圧的な態度を取りえたのは、フォード社のT型モデルの大量生産と低価格による高いマーケットシェアーのためであった。しかし、1908年のT型モデル発売から実質的なモデルチェンジを行わないまま、1927年まで発売を続けた。その間、1921年にはマーケットシェアーは55%を記録した。しかし、競合他社のGMなどは色々なメーカーと合併を繰り返し豊富な車種を抱えるようになった。車を買い替えさせるためには同じ車やデザイン、性能だけではなく、新型デザイン、性能、新しいブランドであり、それを利用してGM,クライスラーは急速にマーケットシェアーを伸ばし、T型フォード一車種に頑固にこだわるフォードは売上を急速に低下していった。
また、1920年の米国不況をきっかけに、成熟しかけていた自動車産業では整理淘汰による寡占化が30年まで続いた。その結果23年には10社が自動車生産の90%を担うようになった。
そして、自動車産業が成熟してくると生産は需要を上回るようになり、メーカーの自動車の在庫が増えることとなり、メーカーのディーラーに対する販売要求は厳しくなるようになった。特にフォードはその市場占有度が高いことを利用し、フランチャイズディーラーに無理な要求、自動車在庫の積み増し、などをするようになり、メーカーとフランチャイズディーラーの関係はぎくしゃくするようになった。フォードの競合のGMはそのフォードよりも10年ほど早く、フランチャイズディーラーにタイルする統制を緩和することになった。
3)モデルT型の終焉とディーラ政策(1938年以降)
GMはフォードと異なり、幾つもの自動車会社を合併して成立しており、T型フォード一種類のフォードと異なり、フルラインの自動車を持っていた。そのGMのマーケティング政策は、フルライン的市場細分化、車種のデラックス化、定期的なモデルチェンジ、であり、その為には需要予測と販売予測、生産計画の統合が必要になり、フランチャイズディーラーも含めた統一をおこなうようになった。
1921年に後の社長のA.P.スローンが事業部制による組織改革を行いだした。1924年に一般販売委員会やディーラー在庫情報システムを導入し、販売予測の精度を上げるようにした。また、ディーラーの在庫をリアルタイムに把握し、それを生産計画に連動するようにして、1926年にGMは統一的ディーラー政策を確立した。この政策はディーラーに販売予測以上の在庫を押し付けることなく、ディーラーの経営効率とメーカーの販売効率を高めることであった。そのために26年にフランチャイズ契約を改定し、ディーラーへのメーカーのヘルプ的な姿勢を明確にした。このフォードとGMのフランチャイズディーラーへの対応の差が、1930年代の不況期に両社の業績に大きな差を生んだのである。
1929年の恐慌の長期化、38年の景気停滞という厳しい経済環境の中に、米国自動車産業は大メーカーによる寡占形成が進んだ。その一方30年代はニューディール政策により全国産業復興法(NIRA)や反トラスト法の適用強化など、政府の政策介入が目立つようになり、自動車メーカーのディーラー対策に大きな影響を与えるようになった。
恐慌の結果、メーカーは生産を回復する手段として車の販売価格を大幅に低下させる戦略を取り入れ、フランチャイズ・ディーラーの収益は大幅に低下してしまった。そのメーカーのフランチャイズ契約やディーラー政策が公正取引委員会(FTC)に取り上げられるようになった。そして、ディーラー保護の法案が通過し、ディーラーは全国自動車ディーラー連合会(NADA)を結成し、メーカーに対抗するようになった。
そこで、フォードは特約店評議会をつくり、特約店達の要望を聞く仕組みを作り上げた。さらに巨大な産業に発達した自動車業界のメーカーとディーラー(特約店)の問題は議会の注目を集め、議会はその事情を調査するために議会公聴会を2度開催した。その公聴会にはフォード2世も証人として出席を求められ、厳しい追及を受けた。フォード社はそれを契機に1956年に特約店政策委員会(Dealer Policy Boerd)を設立した。この委員会の役目は「乗用車部門の予備トラック部門の特約店と会社の関係を改善するために貢献」 することであった。その役目を実行するべく、特約店から色々な問題を聞き出すためにオンブスマン制度を用い、幅広く調査を開始した。
政府はこれらの議会公聴会の結果やその後の調査を踏まえて、1956年に連邦自動車特約店フランチャイズ法を通過させた。同法はフランチャイズ・システムに内在する不平等性を認めた上で、たとえ当事者が平等でなくても契約が公正であることを確保することのにより、特約店の保護を試みたものである。
その結果、フランチャイズディーラーの立場は改善されるようになった。その後、戦後の1950年代から60年代にかけ、政府の規制が厳しくなるなどで現在のように、メーカーとフランチャイズディーラーがほぼ対等の立場に立てるような、フランチャイズ契約が成立するようになった 。
②現代的なフランチャイズ・システム
このシンガー社やマコーミック社、フォード社のフランチャイズ・システムはプロダクト・フランチャイズと言って製品を販売する目的のために造られたものであった。自動車産業の発達に伴いガソリンスタンドを営む石油産業ガソリンスタンド業も発達するようになった。
石油産業で販売するガソリンはブランド間で区別されるような明確な物質的違いがなく、
一般の消費者が各ブランドの差を知ることは困難である。また、必ずしも自社で生産した製品ではない。他社の製品やメーカーの不明な製品も販売するのが一般的であった。
そこで、販売場所としてのガソリンスタンドの店舗外観とサービスを統一することによりブランドアイデンティティを確立し、販売拡大につなげるようにした。いったんブランドアイデンティティが確立すると石油精製会社はそのブランドを維持するためにガソリンスタンドの統制の必要性を感じ始めた。そして、石油精製会社の要望を聞くことがガソリンスタンドに有利であると感じるようにするために、給油所の改装、訓練、特別な装備、統一したユニフォーム、公告宣伝活動、などを特約店支援プログラムとして作成、供給するようになった。
サン石油会社は20年代にこのようなフランチャイズ化されたサービスステーションの利用を始め、このフランチャイズ・方式をビジネス・フォーマット・フランチャイジングと言われるようになった 。
このビジネス・フォーマット型のフランチャイズ・システムはその後のファスト・フ
ードやサービス業などのフランチャイズ・システムに大きな影響を与えたのであった。
外食で最初にフランチャイズ・システムで店舗展開したのは1925年のA&W・ルートビアー社である。A&W・ルートビアー社は飲料中心の簡単なスタンド形式の店舗であり、本格的なレストランがフランチャイズ・システムを導入するのはハワード・ジョンソンである。
1930年代になると自動車が普及し始め、車で移動する人々にとっては便利な外食チェーンのニーズが出てきた。そこに登場するのがマサチューセッツ州ワラストーンWollaston, Mass.のハワード・ジョンソンHoward Johnsonだった。
ジョンソンはマサチューセッツ州クインシーQuincy, Mass.で倒産した薬局を改装して、炭酸飲料の販売店を開店し、彼が開発した3種類のアイスクリームを販売開始した。
ハワード・ジョンソンはファスト・フード的な商品のハンバーガーとホットドックを加えてケープコッドCape Codに店舗を開店した。しかし、ジョンソンはまだ資本力がなかったので、彼のブランドとコンセプトを基にフランチャイズ展開を開始した。
ジョンソンは高速道路上に店舗展開をするにあたり、車客が店舗を見逃さないように目立つオレンジ色の屋根と子供の童謡に使われているなじみのある韻をふむ”Simple Simon met a Pie Man.” をロゴにした。
アイスクリームはすぐに28種類に増加し,その他人気を呼ぶ料理を開発した。そして、ペンシルバニア州政府と交渉し、ペンシルバニア州の高速道路網に独占的に店舗を展開する権利を獲得し、1941年にはジョンソンのチェーンは140店舗以上になった 。
ジョンソンは1940年までにフランチャイズ事業の構築に大きな進歩を遂げた。その年に稼いだ額の半分以上がフランチャイズ店舗からの収入であった。ジョンソンは収益の高いフランチャイジーを統制するために3つの手法を採用した。
Ⅰ、本部がフランチャイジーがジョンソン社の基準をきちんと守っていることをチェックする特別調査員を採用し、営業時間、接客と食事の質、店舗の一般的運営に関する定期的なチェックを行い報告書を作成した。
Ⅱ、店舗で使用する食品や消耗品まですべてジョンソン社から購入することをフランチャイジーに求め、店舗で提供する料理やサービスが一定になるようにした。また、この購入量と売上とを比較し、フランチャイジーが適正な量の基準を守った料理を提供することを確認し、店舗ごとのばらつきをなくした。
Ⅲ、ジョンソンはフランチャイジーを会社の経営に部分的に参加させることによって統制を保つようにした。1930年代にフランチャイジーと本部のメンバーで代理店経営協議会を設立させ、店舗の基準や本部との争いごとを話し合う場にして、フランチャイジーが経営に関与していると自覚させるようにした。
ジョンソンはまた、高速道路沿いに沿って店舗展開をするという点で新しいビジネスモデルを作り上げた。高速道路のインターチェンジ周辺には地元のレストランも展開していたが、高速道路で旅行や仕事に行く人は知らない店舗よりも、ハワード・ジョンソンのように知名度の高いレストランを利用する方が一定の品質とサービスを受けられるために繁盛した。高速道路沿いに展開することで全米の遠隔地まで店舗展開を短期間で行うことができるが、厳格なコントロール下にあるフランチャイズ・システムを使うことでそれが可能になったということで、後のフランチャイズ・システムを採用した外食チェーンの模範となった 。
第4章 ファスト・フードを生み出した社会的背景と技術革新
ファスト・フード業界で第一位のマクドナルドが最初にQSC+V、Q=品質、S=サービス、C=クレンリネス清潔さ、V=価値・価格、というスローガンを打ち出し忽然と出現したのでしょうか、それともマクドナルド以前にファスト・フードの誕生に影響を与える社会的な背景や、企業活動、技術的な変革があったのであろうか。
本章では、まず、ファスト・フードを生み出す社会的背景を明確にし、次に、ファスト・フードを生み出した技術革新を述べる。
(1)ファスト・フードを生み出した社会的背景
①人口動態
1930年には米国の州は48になり、人口は1億2,300万人になった(10年間で3000万人増加)。人口の増加のほとんどは、西部と東部の郊外であった。
その当時には、高速の蒸気船、高速鉄道網、飛行機が発達し、従来は数日かかっていた東海岸から西海岸への移動が数時間で可能になるという移動手段の整備が行われていた。そこで人々は、大恐慌により、新しい仕事を新天地に求めるため西部に移動を開始した。
米商務省センサス局発表の2000年の統計によれば、人口増加を4 地域別にみると、100 年間で北東部2,100 万人→5,400 万人、中西部2,600万人→6,400 万人、南部2,500 万人→1 億人、そして西部は400 万人→6,300 万人と約15倍に増えている。1930 年までは中西部が最大人口地域であったがそれ以降は南部が首位となり、西部も近いうちに中西部を上回る見込みである。南西部の人口割合はこの100 年で38→58%へとアップし、また100 年間の全米増加人口約2 億500 万人のうち、南部ならびに西部の占める割合は66%、1 億3,500 万人となっている。20 世紀最大のトレンドは人口が南西部にシフトしたことである。この傾向は2000 年以降も持続しており、これまで人口の多さを誇ってきた北東部や中西部が、2010 年までにはその地位をサンベルト地帯へ譲り渡すだろう、と米商務省センサス局も予測している。人口増加率では、西部が20 世紀通じて常にトップで、南部は1930 年代以降2 番目に位置している 。
②車の普及率、高速道路
移動手段を見てみると1930年には米国における自動車の所有台数は2,600万台に上っていたことが分かる。そして、自動車のための高速道路が大恐慌の時代にも毎年数千マイルづつ開通していき、自動車の普及は米国人の生活に大きな影響を与えるようになった。
車を所有する人々の楽しみは車に食べ物をたくさん積んで、ピクニックに行くことだった。そして、食べ物が車にない場合には道路沿いのレストランを必要としてきた。この生活の変化に対応して、高速道路沿いのレストランが続々と開店を始めた 。
③所得の変化による外食が必要性や接待から、レジャーへ
ピルズベリーは1920年には2,400店のチェーンレストランが米国に開業していた。 ピルズベリーは1920年から1930年の間に、レストランは贅沢品から必要な日常品に変化したと述べている 。
1920年から1930年の間に、ダイナーDiner,カフェテリアCafeteria,飲料スタンドSoda Shop、ランチハウスLuncheonette,オートマットAutomat,バーベキュースタンドBarbecue Stand,ドライブインDrive In、軽飲料スタンドRefreshment Stand,アイスクリームパーラーIce Cream Parlor,や、チェーンレストランが続々と誕生した。
④電気製品の普及 コックレス
1915年のGMの家電部門のFrigidaireが発売を開始した冷蔵庫である。冷蔵庫の需要はあっという間に高まり、5年後には200社が冷蔵庫の製造に参入した。そして、1931年には冷蔵機能にフレオンガスを使う冷蔵庫がFrigidaireにより開発され、食材が腐る恐れはなくなった。また、同時期にClarence Birdseyは野菜の冷凍方法を開発した。
その他、1884年の瓶詰牛乳の開発、1890年のコーヒーマシン(コーヒー・パーコレーターCoffee Percolator)の開発、1892年の瓶詰Bottlecapの発明、1921年のステンレススチールのフォーク・ナイフの開発、1922年の1ポンド整形バターの開発、1924年の自動トースターの開発、1927年のステンレススチールの食器の開発、1927年の牛乳のホモゲナイズの開発(牛乳中の乳脂肪を細かく砕いて消化をしやすくする。子供が飲んでも消化不良を起こさないために普及した)、1928年のスライス食パンの開発、1931年の電動ミキサーの開発、等、食生活の面で、自動化や高速化の恩恵を受けるようになった。また、プラスチックの加工技術が進み、清掃性がよくなり、内外装の色が明るくなり目立つようになった。
それらの生活必需品の開発が業務用として普及し、業務用厨房機器や、業務用加工食品の発達が見られるようになり、アルバイトでも調理を可能にさせ、チェーン展開が容易になってきた 。
⑤米国人の食生活の変化、禁酒法、アイスクリーム、ソーダ・ファウンテン
1905年にはジュークボックスが開発され、あらゆる年齢層が集う場所に導入されるようになった。レストランは単に食事をする目的だけではなく、友人と会うためや、音楽を楽しむ、会話を楽しむ、噂話をする、家族が日曜日に集う、ビジネスマンが顧客を接待する、という多目的な、楽しむ場所になった。
米国と欧州の外食で決定的な違いは米国のファミリー・レストランとファスト・フードの存在である。欧州のレストランではセルフサービスのファスト・フード業態でもファミリーレストラン業態でもアルコールを出すことは可能だ。しかし、米国のファミリー・レストランとファスト・フードはアルコールを提供していない。提供することは法律上できない。この背景には1919年に施行された禁酒法の存在がある。
1917年に米国が第一次世界大戦に参入し、米国人の若者が徴兵でヨーロッパに派遣され戦うという暗い時代になった。そのため、派手な高級レストランで飲食するという消費形態に冷たい目を向けられるようになった。戦争による高級レストランの不振に止めを刺したのが1919年に施行された禁酒法(Prohibition)であった。元々米国は戒律の厳しい清教徒が造った国であり、アルコール消費には厳しい目を向けていた。1919年に施行された禁酒法を施行に導いたのはカンサス州女性運動家のCarry Nationが1899年に開始した反対運動である。さらに1893年にはワシントンD.C.ではAnti Saloon Leagueが結成され、お酒を飲む場とお酒製造に反対するようになった。
禁酒法は1933年12月5日に解除となったが、その間に米国の高級レストランは殆どなくなっていた。禁酒法が解除になる前後には大恐慌が米国を襲い、高級レストランが復活することはなかった。禁酒法が解除になっても清教徒の影響は強く小売業でお酒を販売する場合にはリカーライセンスという酒類販売許可が必要であるが、レストランで酒類を提供する場合もリカーライセンスが必要とするようになった。その禁酒法後のリカーライセンスの存在は米国独特の炭酸飲料やアイスクリームの発達という後のファスト・フードにとって重要なメニューを普及させたのである 。
(2)ファスト・フードの技術革新
①最初のチェーンレストランの経営と基準を確立したHarvey House
マクドナルドやKFCが突如にチェーンレストランの技術を身につけたのではない。マクドナルドやKFCが出現する以前にチェーンレストランの経営技術を確立した企業がある。
東部から西部への当初の移動手段は馬車であったが、やがて1869年には大陸横断鉄道が開通し、東部から西部への移動はたやすくなったが、横断には数日かかり、食堂車がない列車を利用する顧客のために沿線上の停車駅に食堂を造る試みが行われるようになった。
カンサス・パシフィック鉄道沿いにカフェを展開始めたHarveyは、サンタフェ鉄道と提携し沿線上に店舗展開を開始することにした。1887年にはアチソンAtchison,トプカTopeka、サンタフェSanta Fe鉄道の12,000マイルの沿線上100マイルごとに、ニューヨークやシカゴのホテルやレストランと同じレベルの品質の高いハーベー・ハウスHarvey House店舗を展開していった。品質に関してはカミサリーを設置し、鉄道を利用して各レストランに高品質の原材料を搬送し、各駅で品質の高い料理を本部で作成したレシピーに従って厳格に調理をさせるようにした。また、停車する駅ごとのレストランで同じ食事が出ないように変え、同じレストランも4日毎にメニューを変更して顧客が飽きないような工夫を凝らした。
ハーベーはどこのレストランも綺麗なナプキンやテーブルクロス、食器類を用意し、食材の供給業者も吟味し、場合によっては農園や農場を自社で運営し、新鮮な乳製品などを店舗で使用できるようにした。
ハーベーのレストラン経営は厳しいもので、顧客にもジャケットとネクタイの着用を要求し、従業員もハーベーの基準を守らなくはならなかった。各店舗を抜き打ちにチェックを行い、基準を守らない従業員はその場で容赦なく解雇された。また、品質だけでなく、サービスの向上も務め、Harvey Girlsと呼ばれる女性ウエイトレスを大量に雇い、丁寧なサービス、清潔さ、を実現した。最初に女性を大規模に使用した最初の外食企業であった。
ハーベーが1901年2月9日に亡くなった時には、ホテル15軒、レストランを47軒、30の列車食堂、を運営していた。サンタフェ鉄道と遺族は1968年の12月までその運営を継続していた。1930年には大都市のほとんどに進出し、毎年1500万食を提供していた。しかし、その後1930年代の終わりになると、列車の速度が速くなり、途中の駅で食事をする必要がなくなり、また、恐慌の影響もあり、だんだんハーベーのレストランの売上は低下していった。第2次世界大戦後鉄道を利用する顧客は減少するようになり、1960年代の終わりには利用客は殆どいなくってしまった。
このハーベーのレストランの運営に対する成功と管理方法は後のチェーンレストラン、ハワード・ジョンソンやマクドナルド等のチェーンレストランの模範となった 。
②ドライブイン業態
近代的なロードサイドレストランが始まったのは1872年のロード・アイランドRhode IslandでWalter Scottが手押し車をヒントにパイオニアー・ランチ・ワゴンPioneer Lunch wagonだ。
1891年には起業家のCharles H. Palmerは1891年の9月に幾つかのワゴンを開発し、特許を取得した。そして、そのワゴンを造り販売をするビジネスが誕生し、全米の各地の路上でランチ・ワゴンのビジネスが見られるようになった。
ニューイングランドでは人気の移動式ランチ・ワゴンは他の地域では営業が10時までに制限され、それ以上の長時間営業をするためには固定式にしなければいけないという問題を抱えた。また、移動式ランチ・ワゴンの低所得労働者向けの安っぽく、けばけばしいイメージを払しょくするべく、ランチ・ワゴンの内外装の高級化が必要になった。そこで経営者たちは使い古した市電を購入し、ランチ・ワゴンに改造をするようになった。
ニューヨーク州New Rochelleのランチ・ワゴン製造業のPatrick J. Tierneyはその安っぽいイメージを払しょくするべく、列車食堂の豪華な内外装に改装することにした。女性が利用できるように、ゆったりとしたブース席、換気装置、排気ファン、トイレット等の最新の設備を設置し、その大型ランチ・ワゴンをダイナーDinersと名付けた。
1930~1940年代にはあらゆるもの、冷蔵庫から蒸気機関車まで流線型のデザインのブームが巻き起こり、ダイナーも流線型のデザインを取り入れるようになった。また、きらきらと光るステンレス製の装飾物を内外装に使う豪華なダイナーに変身し、Richard J.S.GutmanとElliott Kaufman ”American Diner”1979 はこの時代のダイナーをダイナーの黄金時代Golden Age of the Dinerと呼んだ。
この時代には全米に6700のダイナーが毎日100万食を提供していた。1940年代の終わりには13社のダイナー製造会社があり、毎年250台のダイナーを製造していた。1950年代には流線型のダイナーは段々古臭いイメージとなり、ダイナーは大型の窓を備えた宇宙船的な未来型のデザインとなり、規模も大型化するようになった。
しかし、1960年~1970年代のファスト・フードチェーンの台頭に伴い、ダイナーのブームは終わり始めた 。
ダラスで煙草とキャンディーの卸売業を営んでいたカービーJ.G. Kirby は車で移動する人は車から降りて食事をすることが面倒くさいと感じていることを発見し、Dr.Reuben Wrigth Jacksonの助けを借りて1921年9月に豚のバーベキューを提供する、米国で最初のドライブイン、店名「ピッグ・スタンドthe Pig Stand」をダラス・フォートワースの高速道路に開店した。ウエイターやウエイトレスは車にトレーに乗せた料理を運ぶので、カーホップCarhopsと呼ばれるようになった。ハリウッドのコーラスラインが着用するようなお洒落な制服を身にまとった。
その後の10年間でカービーと彼のフランチャイジーはピッグ・スタンドを中西部からニューヨーク、カリフォルニアに至るまで展開した 。
③セルフサービス業態の誕生
最初のセルフサービスを用いたのはカフェテリアで、1885年9月4日にニューヨークで開店した、Exchange Buffetだ。この店舗の主要な客は男性中心で、セルフサービスで料理を購入した後は立食であった。1893年にシカゴで開催された博覧会World’s Columbian Expositionで最初の誰でも利用できるセルフサービスのカフェテリアが開店した。経営者のJohn Krugerはスエーデンのカフェテリアスタイルのスモーガスボードをヒントに開店し、カフェテリアと呼んだ。このカフェテリア業態はニューヨーク、シカゴなどの大都市で複数開店した。
次に、革新的な業態、オートマットAutomatは1902年6月9日にフィラデルフィアのJoseph Horn と Frank Hardartにより開発され開店した。彼らはカフェテリアの形態にドイツの会社に注文したコイン販売機械を追加した。1939年にはニューヨークに40軒のオートマットが開店していた。しかし、ニューヨークとフィラデルフィア以外の都市では成功しなかった。シカゴやボストンに進出したがすべて失敗に終わった。そして、オートマット形態の店舗のブームは終わってしまった。
このカフェテリアとオートフォーマットの業態はセルフサービスという後にファスト・フードのシステムに必要不可欠な経営技術を開発した 。
④ファスト・フードのメニュー
1800年代の終わりに、薬局の片隅で炭酸飲料を造る、ソーダ・ファウンテンという飲料スタンドが出来上がった。炭酸飲料はフィラデルフィアのElias Durandが炭酸飲料を消化不良の治療薬として販売するようになったのが起源だ。その後、アトランタの薬剤師のDr.Johe Styth Pembertonがコーラの実から飲料を造り、Jacob’s Pharmacyで販売し、コカコーラが誕生した。
次に誕生したのはアイスクリーム・ソーダだ。起源には2つの説があるが、1874年10月のフィラデルフィア・フランクリン・インスティテュートの博覧会でRobert M.Greenがアイスクリーム・ソーダを販売し、最高、1日で100ドルの売上を上げたといわれている。1893年のAmerican Magazineがアイスクリーム・ソーダは国民的飲み物だと宣言したほど、急速に普及していった。
ソーダ・ファウンテンのディスペンサーがカウンターに設置して顧客に向かいながら製造できるようになったのは1903年にフィラデルフィアのBroad Street薬局が最初だ。また、アイスクリーム・コーンは1904年のセントルイス万国博覧会で紹介された。その後、ソーダ・ファウンテンではミルクシェイク、モルト(麦芽入りミルクMalted),サンデー、フラッペ(かき氷Frappe)、パフェ、フィズ(弱炭酸飲料Fizze)、エッグクリーム、バナナスプリット、等がきらきらしたガラスや大理石を使った豪華な内装の中で販売されるようになった。1908年には75000店舗のソーダ・ファウンテンの店舗が全米に存在した。
軽食堂luncheonette lunchroom は1904年にマサチューセッツ州のスプリングフィールドのHarry S. Kelseyが営業を開始し、高級ホテルの名前を使い、Wadorf Lunchwo名付け、東海岸に1920年までに74店舗を開店した。軽食堂は第一次世界大戦の後、急増し、Thompson’s ChicagoやバルチモアーのDairy Lunchは1920年には104店を展開していた。軽食堂ではサンドイッチが提供されるようになり、各地の軽食堂で色々なサンドイッチが開発され、ハンバーグを挟むハンバーガーなども提供されるようになった 。
⑤ファスト・フードの誕生
このハンバーガーを販売する軽食堂の一つがホワイト・キャッスルで、最初のハンバーガー・チェーンとして展開を開始するようになった。店舗デザインは白い色で清潔さと品質を強調した。ホワイト・キャッスルはバンズというパンを造り上げ、ミートパティとバンズを毎日2回配送するという品質管理、鮮度管理を実現している。また、当時のひき肉のハンバーグは色々な混ぜ物をしているという品質上の疑いに対して、イメージを向上するために調理工程をすべて見せたり、マーケティング上のイメージ向上をおこなった。また、後に、鮮度管理のために冷蔵のミートパティから冷凍のミートパティに変更し、フレッシュ・フローズンという概念を造り上げた。身だしなみの点では、マニュアルに従業員の全身のイラストをかき、どこをどのように注意するのかをビジュアル的に分かりやすく述べた。
しかし、ホワイト・キャッスルなどのハンバーガーチェーンは中西部から東部にかけて、市街地の住民や工場労働者をターゲットにした、軽食堂の形態から進歩したものである。1,920年代にはその形態は十分なマーケットを持っていたのだが、自動車の普及による社会の変化に対応できず、後に西海岸で創業したハンバーガー・チェーンがハンバーガーチェーンの全国展開を行うようになった。
⑥低価格化の実現(大量生産方式の影響)
ヘンリー・フォードは1909年に、フォード自動車会社は今後、T型自動車のみを生産し、その3種類の車種のシャシーをすべて同一にすることを決定した。まず、小火器の製造で使われていた部品互換性を実現する専用の工作機械と、工程ごとの機械配置、部品の品質を計測するゲージシステムを取り入れていた。部品の加工精度を高める専用の工作機械については当初、外部工作機械メーカーの助けを借り、1台目の工作機械製造をしていたが、だんだん、自ら専用工作機械の設計と製造を行うようになった。次に、工場用の作業計画システムを考案し、生産速度を綿密に管理するようになった。
最後に、フォードの技術陣が取り組んだのは組み立て作業だ。当時の部品組み立ては各作業台まで部品を運び、その作業台の上で組み立てを行っていた。
その工程を流れ作業方式で自動的に行えないかと考え、コンベアー方式の鋳型運搬機、シカゴ食肉加工所のコンベアー方式、製粉工場のコンベアー方式、缶詰工場のコンベアー方式等を研究し、加工対象の物はすべて自動的に移動させ、人はすべて停止したままにするという工程の変化、流れ作業方式の導入が始まった。
最初に導入したフライホイール磁石発電組み立てラインでは、作業台での磁石発電機組み立ては1人1個の製造時間は20分であったが、コンベアー組み立て方式の採用により、1人1個の生産時間は13分10秒に短縮され、コンベアーラインの改良に伴い、5分に短縮するという劇的な生産性の向上を実現した。これ以降、あらゆる生産工程でのコンベアー組み立て方式の採用が試みられるようになり、1913年から14年にかけてほとんどの工程で採用され、最終的にシャシー組み立てラインにも採用された。その結果、フォード社のT型生産台数を見てみると1912年には年産82,388台であったのが、13年には189、088台、15年には394,788台まで急増した。そして、注目するべきは1912年の価格600ドルに対し、15年の価格が440ドルと劇的に下がったことがわかる。このコンベアー方式の組み立てラインによる製造工程の生産性の向上を、販売価格に反映するという好循環によりフォードモデルT型のマーケットシェアーはピークの1921年には55%にまで達した。
このフォード生産方式は米国の考案した最高の生産技術として知られるようになり、外食産業でもその考え方を取り入れるようになった。それが、マクドナルド兄弟がテニスコートで店舗のレイアウトを基に作業シュミレーションして生産性を向上させる基礎となったのだ。
特に注目するべきはフォードの大量生産方式は、生産するモデルをT型に絞り込み、生産性を上げることで、販売価格を大幅に下げ、さらに販売台数を増加させ、さらに販売価格を低減させるということである。
マクドナルド兄弟は、このフォードの生産方式を導入することでハンバーガーのコストを30セントから15セントにすることを可能にし、大繁盛のハンバーガー・チェーンの礎を築いたのだ。
⑦フランチャイズ方式が急速な店舗展開を実現した
第3章で述べたように、シンガー社やマコーミック社、フォード社のフランチャイズ・システムはプロダクト・フランチャイズと言って製品を販売する目的のために造られたものであった。その自動車産業の発達に伴いガソリンスタンドを営む石油産業ガソリンスタンド業も発達するようになり、自社製品を販売しないビジネス・フォーマット型フランチャイズ・システムを採用した。
ガソリンはブランド間で区別されるような明確な物質的違いがないので、ガソリンスタンドの店舗外観とサービスを統一することによりブランドアイデンティティを確立し、販売拡大につなげるようにした。そして、給油所の改装、訓練、特別な装備、統一したユニフォーム、公告宣伝活動、などを特約店支援プログラムとして作成、供給するようになった。
このビジネス・フォーマット型のフランチャイズ・システムを最初に採用したのが1925年のA&W・ルートビアー社である。A&W・ルートビアー社は飲料中心の簡単なスタンド形式の店舗であり、本格的なレストランがフランチャイズ・システムを導入するのはハワード・ジョンソンである。
ジョンソンは1940年までにフランチャイズ事業の構築に大きな進歩を遂げた。その年に稼いだ額の半分以上がフランチャイズ店舗からの収入であった。ジョンソンは収益の高いフランチャイジーを統制するために3つの手法を採用した。
1)、本部がフランチャイジーがジョンソン社の基準をきちんと守っていることをチェックする特別調査員を採用し、営業時間、接客と食事の質、店舗の一般的運営に関する定期的なチェックを行い報告書を作成した。
2)、店舗で使用する食品や消耗品まですべてジョンソン社から購入することをフランチャイジーに求め、店舗で提供する料理やサービスが一定になるようにした。また、この購入量と売上とを比較し、フランチャイジーが適正な量の基準を守った料理を提供することを確認し、店舗ごとのばらつきをなくした。
3)、ジョンソンはフランチャイジーを会社の経営に部分的に参加させることによって統制を保つようにした。1930年代にフランチャイジーと本部のメンバーで代理店経営協議会を設立させ、店舗の基準や本部との争いごとを話し合う場にして、フランチャイジーが経営に関与していると自覚させるようにした。
ジョンソンはまた、高速道路沿いに沿って店舗展開をするという点で新しいビジネスモデルを作り上げた。高速道路のインターチェンジ周辺には地元のレストランも展開していたが、高速道路で旅行や仕事に行く人は知らない店舗よりも、ハワード・ジョンソンのように知名度の高いレストランを利用する方が一定の品質とサービスを受けられるために繁盛した。高速道路沿いに展開することで全米の遠隔地まで店舗展開を短期間で行うことができ、また、厳格なコントロール下にあるフランチャイズ・システムを取り入れたことは後のフランチャイズ・システムを採用した外食チェーンの模範となった。
⑧1955年ファスト・フード3大企業の誕生
1)1937年 マクドナルド
カリフォルニアは車社会に移行しつつあった。ディックとマック・マクドナルド兄弟Maurice “Mo” and Richard “Dick” McDonaldは1937年にカリフォルニア州パサデナの東に小さなドライブインを開いた。簡素なドライブインで、ディックとマックのマクドナルド兄弟がハンバーガーを焼き、店内のテーブル客にサービスし、駐車場の客には3人のカーホップを雇って応対させる小さな店であった。
『マクドナルド兄弟はマサチューセッツ州のニューハンプシャーからカリフォルニアに移住しサンベルナーディノSan Bernardino のE Streetに小さなドライブインを開店した。従業員は20名だった。その店舗は年間二十万ドルの売上 と順調だった。しかし、第2次世界大戦が終了し、労働環境が変わってしまった。徴兵から帰ってきた人たちはより良い仕事を求めたり、従軍すると奨学金が出たので大学に行くなど、レストランで働く人が減少した。そのため1940年には売上に対する人件費率が27%であったが、1947年には35~40%に上昇してしまった。(筆者注:通常レストランの人件費は25~30%、食材コストも25~30%であり、両方を合わせたFLコストは60%以下でないと赤字となる)。そこで、質の悪い従業員に飽き飽きしたマクドナルド兄弟は1948年12月に従業員のカーホップサービス(ウエイトレス)を全員解雇した。そして、25種類のメニューを絞り込み9種類にした。そして、客は自ら店舗のカウンターで料理を買うセルフサービスを導入した。その人件費とメニュー絞り込みによるメリットは顧客に対して、従来のハンバーガーの販売価格の半値の15セントという低価格だった。そして兄弟は彼らの新しいシステムをスピーディー・システムと称した。1952年7月号のAmerican Restaurant Magazine は人件費が売上に対して17%に低下したと述べている。
その成功に気を良くした兄弟はそのAmerican Restaurant Magazineに「彼らのセルフサービス方式は過去50年間のレストランの歴史で最も革新的な方式である」と広告を打ち、その方式を全米に知らしめてしまった。兄弟はこの広告の後、フランチャイジーの募集をだした。 』
1948年12月に店を再開した際には店舗の看板にスピーディーというシェフの服装を着たキャラクターを掲げた。
最初は苦戦し売上は改装前の1/5まで落ちたが、メニューにミルクシェイクとフレンチフライを付け加えることにより6ヶ月後には売上は伸び出した。売上が伸びたもう一つの理由は、セルフサービスという新しい形態により、不良少年のたまり場から脱却し、家族連れも来れる健全な店舗になったことだ。そして、労働者階級の人々が子供連れで食事にいけるレストランとなった。マクドナルドの八角形の店舗は窓が広く内部が見通せたので、調理光景がアトラクションとなったし、安かろう悪かろうというイメージを払しょくした。また、調理光景が見えることが子供にも人気が呼び、子供が自ら注文できるお店としても人気が出た。子供に人気が出ることは一緒に来る親も引き付ける要因となった。
再開1年後には兄弟は投資をすでに回収した。しかし、兄弟が思い描いている売上には達していなかった。そこで、兄弟はヘンリー・フォードがT型フォードを生産するにあたって、考案した自動車のアッセンブリーライン(流れ作業方式)を採用し、人間の複雑な手作業が必要な調理工程を流れ作業方式に変えることにした。
流れ作業方式を取り入れるためにはキッチンのレイアウトと人の流れがスムーズに行く、性能の高い調理機器、アルバイトでも一定の味付けができる調理器具、が必要であり開発を開始した。
まず、ディックはハンバーガー用のバンズが24個のる回転式のテーブルを作成し、グリルから少し離れた場所で開店するテーブルが回る間に2人でパンに調理量を塗る。開店テーブルは移動する台につながっており、グリルまで運ばれる。そこでハンバーガー・パティ(焼きあがった肉)がパンに載せられると、包装する場所に送られる。
高性能の調理機器を開発するためにレストランの設備に全く経験のない地元の職人、エド・トーマスに調理機器や調理器具を開発させた。知識がないことが斬新な構想を可能にした。その開発は大量のハンバーガーの肉をひっくり返すに使うスパチュラを薄い金属から、固い大型のスパチュラにする、ハンガーガーの調味料のケチャップ、マスタードを一定量自動的に塗るディスペンサー、などであった。
特注の調理機器だけではなく、調理という職人技が調理速度でも品質でもばらつくので、少ないメニューを作業分担させた従業員に反復作業をさせることにした。3名のハンバーガー担当者はグリル・マンがハンバーグ・パティを焼きあげる、バン・マンがパンを焼き上げる、ドレス・マンが焼きあがったパンにケチャップ、マスタード、ピックルス、オニオン、を乗せるだけ、の分業作業とした。シェイク・マン2名は1人がカップにシロップとミルクミックスを入れるだけ、もう1人がそのカップをミキサーで攪拌するだけ、にした。
フライ・マン2名は1人がフレンチフライをフライヤーに入れ、もう一人が上がったフレンチフライに塩をかけて紙バックに詰めるだけ。グリルの反対側の販売窓口側に立ったプロダクション・コーラーはハンバーガーの製造の注文と出来上がったハンバーガーを包装し保温庫に保管する。2名のカウンター・マンは2か所の窓口で注文を受け出来上がった商品を袋に詰めて渡すだけ。とそれぞれの作業を明確に分け、分担制にした。
そして、各自が分担する仕事もスピードアップするためにさらに細分化した。ハンバーガーの注文をプロダクション・コーラーがグリル・マンに大声で伝えたり、注文に応じて素早く方するする手順を明確にした。シェイクはマルチミキサー(複数のミキサーが一台にまとまっている。後にマクドナルドコーポレーションを設立したレイ・クロックが販売をしていた)4台を並べ、前もって作ってある80杯のミルクシェイクをアイス・キャビネット(保冷する冷凍ショーケース)に用意した
さらに、売上のピーク時に30秒で提供できるように、客の注文を聞いてから作るのではなく、来店客の予測をして商品を作り置きするようにした。また、造り置きして時間が経過すると品質が低下するので、売れない場合は何分経過したら廃棄するかを明確にした。
この仕事の手順の細分化によりマクドナルドの生産性は伸び、同時に自動車産業でヘンリー・フォードがおこなったような労働力の節減が可能になった。未経験者を最低賃金で雇い、短期間の訓練で、即席料理の一流コックに仕立て上げたのである。また、女性目当てで来るディーンエイジャーを避けるために従業員は男性のみとした。
このサンバーナディーノ店の成功は1年もしないうちに、セルフサービス、ペーパー・サービス、スピード・サービスを軸とした独特な経営形態となった 。
このようにT型フォードの生産方式を学び、レストランの世界に合理的なレイアウトのときちんとした作業配分を行い、低価格のハンバーガーを販売することを可能にしたのだ。
2)1952年 KFC
現代であれば退職をしている年齢の66歳になったハーランド・サンダースは元気いっぱいであり、年金で細々と生活するのではなく、新しいビジネスへ挑戦を開始した。サンダースはケンタッキー州カービンCorbinの州道沿いに1940年からモテルとガソリンスタンド、サンダースカフェという食堂を経営していた。宿泊客や旅行客に食堂で美味しいフライドチキン(南部名物)を提供しようと美味しい調理方法を研究開発していた。
当時の南部のレストランがフライドチキンを調理する方法は、フライパンに油を注ぎ調理するパンフライPan-frying方式が一般的だった。しかし、少なくても30分は調理に時間がかかる。もし忙しい時に早く出そうと事前に揚げて置いておくと売上予測が狂った際には大量に余ってしまう。フレンチフライを揚げるような大量の油を入れるディープファットフライヤーでは早く調理できるが、カリカリに揚がったり、部位によって揚がり方が異なるという問題を抱える。そんな矛盾に悩んでいるサンダースに金物店の店員がPrestoの圧力釜を使うことを勧めた。早速一つ買い入れ、その性能に驚いたサンダースは直ぐに7台を追加購入した。
次にサンダースが行ったのは独特のスパイスの配合だった。色々研究をしておいしい配合を見つけたが、従来の顧客が味が異なると嫌がるだろうと思って、変更できないでした。しかし、1950年に近くを流れる川を利用した観光客船が500人の客用の料理をサンダースに発注することになった。初めての客であるので、抵抗はないだろうとサンダースは長年温めていた新レシピーを使ったフライドチキンを提供した。顧客たちには大好評だった。
やがて、サンダースは圧力釜で調理をするというアイディアと11種類の秘密のスパイスを基に美味しいフライドチキンの調理方法を完成し、調理方法の特許を取得した 。(添付資料参照 日米の特許公報)
後にサンダースはカーネル(大佐)の称号を州知事のルビー・ラフォンRuby Laffonからケンタッキー州名物の美味しい料理方法を開発したとして,授けられて、カーネル・サンダースと呼ばれるようになった。
彼の店舗の面している近所に州間高速道路75号線Interstate 75 の建設が行われ、ビジネス客や旅行客はカービンの街を素通りするようになってしまった。顧客が激減したサンダースは倒産の危機に陥った。
サンダースは立派な顎鬚を黒のスーツとヒモ・ネクタイを身に纏い(白い上下の服を着る前)圧力釜と彼の開発した11種類のハーブとスパイスを詰めた袋をキャデラックに乗せて、レストラン経営者に売り歩きはじめた。
サンダースのレストラン経営者との契約書は簡単だった。レストラン経営者がフライドチキンのレシピーと調理方法を気に入れば、サンダースに一食ごとに何セントかのロイヤルティを支払うというものだった。
サンダースの最初のフランチャイジーはソルトレイク市Salt Lake Cityでハンバーガー店を経営していたレオン・ピート・ハーマンLeon “Pete” Harmanだった。そして、ハーマンはメニューにサンダースのレシピーのフライドチキンを付け加えると、お店の看板を”Kentucky Fried Chicken.” に変更した。
後にハーマンは店舗運営の中心をカリフォルニア州のロスアルトLos Altosに移転し、ハーマン・マネージメント社Harman ManagementとしてKFC社最大規模のフランチャイジーとして260店舗を運営するようになった。
創業して9年後にサンダースのKFCは600店舗になり、2ミリオンドルと終身顧問契約を条件に、ケンタッキー州ルイビルLouisvilleの投資家ジャック・マッセーJack Masseyと29歳の弁護士ジョン・ブラウン John Y. Brown(後にKFCの成功によりケンタッキー州の州知事に就任)に売却した。
その後、KFCは2回売却された。1971年に洋酒会社のヒューブラインHeubleinに、次に、1986年にコーラ飲料メーカーのペプシコPepsiCo Inc.に840ミリオンドルの巨額で売却された。
ペプシコは300ミリオンドルの投資(実際は株式交換)でウイチタWichitaのカーニー兄弟Carney Brothersからピザ・ハットPizza Hutを買収した。その1年後には125ミリオンドルで(株式交換) タコ・ベルTaco Bellを買収した。2001年にはペプシコから分離してトライコンTricon社を設立した。2001年にはさらにフィッシュ・アンド・チップスのロング・ジョン・シルバーLong John Silver’sとルートビアーとハンバーガーのエー・アンド・ダブリュA&W Restaurantsを買収し、社名をヤム・ブランドYum! Brandsに変更した。
KFCの素晴らしさはハンバーガー業界ではマクドナルドの他にハンバーガーチェーンが10数社もあるが、フライドチキンの分野ではKFCを追随する企業は殆どない。これはサンダースの11種類の秘密のレシピーと、調理の特許で競合他社を生み出さなかったからだと思われる。また、外食企業で調理方法で特許を取るということは稀であった。Dardenによればサンダースはレストランビジネスに従事する前に裁判所で働いた経験がある。その法廷での経験から調理方法の特許の取り方を学んだのだと思われる。また、サンダースが外食企業に乗り出すきっかけは、ガソリンスタンドの開業である。ガソリンスタンドはビジネス・フォーマット方式によるフランチャイズビジネスの展開をしており、その仕組みを熟知したサンダースは当初からフランチャイズ・チェーン展開を考えていたのだと思われる。その特許とフランチャイズ展開の手法がKFCを大手3社の位置に上り詰めさせたといえる 。
3)バーガーキング
キース・クレイマーKeith Cramerとマシュー・バーンズMatthew Burnsの2名のフロリダ出身者はサンベルナルドのマクドナルド兄弟に会いに行き、南部のジャクソンビルJacksonvilleに彼らの最初のインスタ・バーガー・キングInsta-Burger Kingを1953年に開業した。
コーネル大学ホテルスクール卒業生で、レストラン業界に従事していたジェームズ・マクラモアーJames McLamoreは友人のデイブ・エドガートンDave Edgertonと一緒に、マクドナルドを真似してハンバーガーとミルクシェイクを売り物にするハンバーガー・チェーンのインスタ・バーガー・キングInsta-Burger King 南フロリダ地域の販売権を獲得してハンバーガー・レストランをマイアミの3090 NW 36th St.に開業した。
まもなくして、インスタ・バーガー・キングはバーガー・キング”Burger King.”に店名を変えた。現在はマクドナルドに次ぐ2位のハンバーガー・チェーンだ。
1961にジェームズ・マクラモアーとデイブ・エドガートンはバーガーキング社から国内外のフランチャイズ展開権を買い取った。1967年に274店舗を展開していた同社を大手食品メーカーのピルズベリー社Pillsburyに $18ミリオンドルで売却した。 その後、英国のグランドメトロに売却され、再度数年前にスピンアウトして米国で再上場している。
バーガーキングの技術的な特徴はハンバーガーの調理方法であるブロイラー・システム(マクドナルドは鉄板で焼き上げるグリル方式であるが、ブロイラーは炭やガス電気などの熱源で直接焼き上げる方式で、脂が落ち燃えた煙がハンバーガーに香りをつけるので米国人が好む調理方法)、の改良を行ったことだ。それはコンベアーで自動的にハンバーガのミートパティとバンズを焼き上げるという方式だった。これはフォード生産方式のコンベアー方式にヒントを得たのではないかと思われる。その生産性の高いブロイラーで調理をするバーガーキングの主力メニューのワッパー”the Whopper.”を1957年に37セントで発売した。ワッパーは現在ではバーガーキングの看板メニューとなっている 。
このように1955年に現在の米国外食企業の売上1位~3位までが誕生しているのは偶然ではない。1つには社会的な背景がファスト・フード業態を必要としたこと、2つ目にはそれまでの外食企業における技術の積み重ねがあったことだ。
その中でも注目するべきはフォード生産方式がファスト・フードの誕生に大きな影響を与えたことだろう。外食業界内の他企業の真似をしていては技術革新は生み出せないが、他産業の成功事例を参考にすると技術革新に近い成功が生まれるということだ。
終章 まとめ
(1)結論
フォード社の大量生産方式に至る工業生産の歴史と販売方式の一つであるフランチャイズ・システムの歴史を詳細に検討した結果、第2次産業の製造業が取り組んだ大量生産方式とフランチャイズ・システムの取組が、技術拡散し、第3次産業のファスト・フード(外食産業)を生んだことが明らかとなった。その技術拡散は技術者や企業の他産業への移籍、研究書物による知識の公布、等によって行われた。
もっとも良い事例としてはGM最高級車のキャデラックを創立したヘンリー・リーランドである。東部の工廠方式を身につけ、コルト工場などの小火器メーカーで働いた後、ミシン製造会社を経て、車部品製造会社、自動車製造業のオールズモビル、キャディラック(後にGMに買収)、リンカーン(後にフォードに買収)を設立している。
筆者は、ファスト・フード業は何か特許に匹敵する独創的な経営手法を考案したのではないかと仮説をたてた。
大量方式確立の36年後、マクドナルド兄弟の新店舗の構築が終わった。フォード社の大量生産方式を、マクドナルド関係者が直接学んだ事実はなかった。フォードが大量生産方式を確立後36年経過しており、フォードの大量生産方式は周知の事実であり、マクドナルド兄弟がフォード社に学んだ最も重要なことは低価格戦略だった。販売する商品を絞り込み、流れ作業方式とセルフサービス方式の採用により労働生産性を向上し、人件費率を40%から17%まで低減し、ハンバーガーの販売価格を30セントから15セントに半減するという低価格政策だ。次に、新しい郊外型社会に店舗展開を迅速に進めるうえで、フォードが完成させたフランチャイズ・システムを採用したこという工業的な生産方法と販売方法の考え方だ。
フォード社が自動車の大量生産を成功させ、自動車社会を生み出し、郊外型社会を作り上げた。この郊外型社会が車で行くドライブインという業態を生み出した。大量生産技術は、冷蔵庫やミキサー、コーヒーマシン、アイスクリームマシン等の家電製品を生み出し、それらが調理の自動化を可能にする業務用厨房機器に成長した。増加する人口に食料を効果的に配給するために、缶詰、瓶詰、冷凍食品、加工食品、等の保存食品の技術が、ファスト・フードのコックレス調理を可能にした。
チェーンレストランの管理方法は1887年の鉄道駅沿いに展開したハーベー・ハウスが確立し、ハンバーガー専門店という業態はホワイト・キャッスルが確立した。そして、フランチャイズ・システムはハワード・ジョンソンが確立した。それらのすでに確立したノウハウと、フォード社の大量生産方式を組み合わせて、ファスト・フードのマクドナルドが誕生したのだ。
自動車産業もファスト・フード(外食産業)は特別な発明をしていたわけではないのに、大成功したのは、技術だけではなく、他の要素も多きいであることが思いついた。産業間における技術の拡散による技術の収斂は、技術革新と同様な効果があると考えられる。
企業は創業時には特許や独特の発想による技術革新に近い製造や販売方式が必要である。しかし、その創業時の勢いを維持するには、企業のマネージメントが必要だと思われる。
フォード社は流れ作業方式による大量生産によりT型モデル単品で1,500万台生産という記録を打ち立てた。しかし、生産方式に固執するばかりに顧客の要望の変化を見逃し、後発のGMに抜き去られた。後発のGM社は独特の技術ではなく、卓越したマーケティング力で1位に上り詰めたのである。しかし、米国自動車産業は経済成長を続ける米国に焦点を当てすぎ、売上を上げるために高額車の販売に傾注するという失敗を犯し、昨年のリーマンショック以降、GMやクライスラーの企業再生の時代を迎えざるを得なくなった。
大量生産方式を完成させて自動車の価格を半分にしたフォード社等の自動車産業は米国経済の急成長と共に成長したが、新しいマーケットへの進出を怠り低価格の重要性も忘れ売上を上げるために高額車の販売に傾注するという失敗を犯し、今でも苦戦をしている。
マクドナルドの場合には、マクドナルド兄弟が構築したマクドナルドというハンバーガー・レストランを起業家のレイ・クロックが買収し成長させた。レイ・クロックの成功の要因は最初に兄弟に指示されたフランチャイジーから収集するロイヤリティが1.9%と低額であり、それが「フランチャイジーを成功させなければならない」という、クロックの経営方針を生み出したことだ。そして、急成長する米国経済だけにとらわれず、後進国にも店舗展開を行い、創業時の低価格戦略を忘れず、リーマンショックにもかかわらず成長を続けているのは、技術革新を引き起こし、それを持続させることの重要性を明らかにしている。
フォード社の大量生産方式とフランチャイズ・システムの技術をヒントに誕生したマクドナルド社は、低価格という基本を守りながらも海外への進出を実施しリーマンショック後でも健在である。
急成長する米国経済だけにとらわれず、後進国にも店舗展開を行い、創業時の低価格戦略を忘れず、リーマンショックにもかかわらず成長を続けているのは、技術革新を引き起こし、それを持続させることの重要性を明らかにしている。
(2)今後の課題
本研究では、米国外食産業の歴史、大量生産方式の確立から自動車産業が作り上げたフランチャイズ・システムまでに多大な時間を配分してしまったため、個々の外食企業の技術革新が他産業からどのようにして影響を受けたかまでの詳細な分析に踏み込めなかった。
今後は、個々の外食企業の技術革新や技術拡散に焦点を当て、技術内容を詳細に研究する。また産業間だけでなく、日米中等の国際間技術移転や技術革新に焦点を当て、その実態を明らかにしていきたい。また、現在中国では内需拡大の一つの技術としてフランチャイズ・システムに焦点を当てて、法規制や法律の確立を図っているので、そのフランチャイズ・システムの在り方、法規制における日米中の違いを分析し、中国におけるフランチャイズ・システムの健全な発展に役立てたいと思っている。
以上
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以上