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体験的SV業務
第5回
SVの開発業務の歴史


最初はSV見習いとしてSVT(スーパーバーザートレーニー)のタイトルだった。だめだったら元に戻すというタイトルだ。3ヶ月間休みを取らず、最低週に1回の徹夜と3回の深夜業務をこなした体力を評価されてか、やっとSVへ昇進させてもらった。

SVのQSCの業務としてのコンサルテーションレポートを何回か実施する内に色々の問題点、疑問点が明確になってきた。そして、本家の米国ではどのようにしているのかを自分の目で見たいという気持ちが日に日に強くなってきた。そんな疑問と、好奇心が芽生えてきたときに軍事顧問から米国研修を申し渡された。

当時1ドルまだ360円の時代であり、まだ多大な投資を続けざるを得ない状態の日マクドナルドには多額の費用がかかる米国研修を行う財政的な余力はなかった。しかし、米国マクドナルドは単にロイヤリティを日本から受け取るだけでなく、それ以上の金額の費用を米国研修旅行の費用として出してくれたのである。そのおかげでSV以上の研修旅行を受けることが出来たのだった。

研修旅行と言ってもマクドナルドのことであるから単なる物見遊山ではない。まず、サンフランシスコの店舗を訪問し、次にニューヨークの店舗の視察、そしてシカゴの本社のあるシカゴのハンバーガー大学での10日間のAOCの受講、そして、帰国はハワイ経由でと約3週間にのぼる研修旅行だった。

この研修旅行ではマクドナルドのマニュアル、ノウハウの奥行きの深さに驚かされた。当時は70年代の半ばであり、米国経済はややかげりを見せ始めたものの,まだ絶頂期であった。当時の店舗のオペレーションのレベルのすばらしさは現在の米国店舗の状況とは雲泥の差があり、店舗内はゴミ一つ落ちていないし、倉庫内の整理整頓や調理機器のプリベンティブメインテナンスは完璧であった。

店舗訪問の際にはカメラを持参し、全ての店舗の写真を撮って歩いた。視察旅行の際に写真を撮る場合が多いが、むやみにとっても無駄だ。まず、この目で見て参考になる箇所、疑問に思った箇所を頭に刻み込みその部分を角度をいくつか変えて写真を撮るわけだ。そうすると写真を現像や着付けした写真を見ながら、その時に感じた問題点、参考点の記憶がよみがえってくる。そこで写真にメモをつけて行くわけだ。そうすることにより写真の価値が出てくるのだ。何もわからずに目で見ないで、写真を撮っていくと実はファインダーを通してしか物を見ていないからなぜその写真を撮ったのが、実際の現場はどうだったかがわからなくなるのだ。

また、店舗を見るだけでなく外食の競合の状況や、ショッピングセンターの各業種、米国での生活のし方等、幅広く見て回った。ここで軍事顧問に厳しく言われたのは、ありのままの状態を見ろと言うことだった。日本人は言葉の問題もあるが島国に長く住んでおり,日本独自の考え方にどっぷり浸かっている。そうすると全く新しい物を見たときにこれは日本で言うと何々だなとか、日本のあの店と同じだ等と、自分のフィルターにかけてみてしまいがちで、米国でどのような位置づけなのかという捉え方を出来ないと言う問題があるということだった。

筆者は日本経済新聞や飲食店経営の他に商業界、販売革新などの小売業の専門雑誌を購読しており、海外の小売業やショッピングセンターの状況を把握していた。だからショッピングセンターを訪問しても見るのは初めてだが、知らなかった小売業は無かった。そして、雑誌などで仕入れて知識を元に実際の店舗を見ることが出来て大変勉強になった。当時の日本の流通業はまだまだ遅れており、米国のショッピングセンターの百貨店の飾り付けや、ニューヨークのメイシーズ、ブルーミングデールのショーウインドーディスプレーのすばらしさに感嘆させられた物だ。

軍事顧問にはさらに目的を持って店舗を見なさいという指導をうけた。他のSVが目的もなく単に写真のを撮っているとその目的を聞いて、何となく撮っているともの凄く怒られていた。筆者は商品の品質に問題点を感じ、機械、原材料、オペレーションと的を絞って写真を撮っていたので怒られることはなかった。

この米国研修旅行で撮った写真の枚数は1500枚以上になりその一枚一枚を見てみると当時の問題がなんだったかがまるで目の前にあるかのように思い出される。

10店舗を越える店長時代に書いたが、当時のオペレーションはいい加減な物だった。銀座の一号店を開店前に数名の社員が1ヶ月弱グアム島のマクドナルドで研修し、後は見よう見まねで開店したわけだ。軍事顧問も同様で、マクドナルドに入社して1年ほど仕方っておらず、やっと店長になったくらいの経験だった。そんな中でマニュアルを簡単に訳し、日本化していたのだから、米国のオペレーションとは全然異なるのは当たり前であった。

まず品質上の最大の問題点はハンバーガーの肉が焼けない,フレンチフライが上がらないと言う問題だった。当初は売れすぎだからと思っていたが、この研修旅行で発見したのは調理する機械が全く異なると言うことだった。当時の日本のグリドルはガスを熱源としてサーモスタットが3連で、そのサーモスタットの反応が実に遅い物だった。初期のマクドナルドはフレッシュの挽肉をパティ状に整形した物を毎日店舗に配送して使用していた。フレッシュのミートであれば焼成するのにそんなに熱カロリーを要求しないので、反応の遅いグリドルでも良かったわけだ。しかし、フレッシュの挽き肉は3日で色が変わり臭いも出て廃棄しなくてはいけないのでロスを防ぐために冷凍のミートパティを使うようになってきた。冷凍のミートパティを解凍しないでそのまま焼くのが一番品質がよいのだが、そうするとかなりの熱カロリーが必要になる。従来のグリドルは熱カロリーよりも温度の分布に優れた物だったが、冷凍品には所詮向いていなかった。そこで、冷凍パティ用の熱カロリーが高く、応答性の良いグリドルが開発されたわけだ。

当時の日本の国産牛肉は高価であったため、海外から冷凍パティを輸入することになった。ところが、肝心の冷凍パティ用のグリドルがあるのを知らないで熱カロリーの低いグリドルを入れたわけだ。それでも米国と同じグリドルを使用すればまだ良いのだが、為替の関係で米国製は高価だと言うことで、輸入した機械をモデルにコピーをしたわけだ。コピーでもデッドコピーで内部の機械部品まで全て同じであればよいが、そこは素人の見よう見まねであり、肝心のエンジン部分である燃焼部分は全く異なる品質の物を使用していた。

米国では使用するガスは天然ガスかプロパンガスの2種類しかなかった。しかし当時の日本はコークスガスという石炭を原材料にしたカロリーの低いガスが中心であり、カロリーだけでなく、供給する圧力も低かった。昼や夕方になり各家庭で夕御飯の支度や風呂をわかすためにガスを使うようになると全体のガスの圧力が落ち、店舗で使うグリドルやフライヤーの火力も落ちてしまうのだ。それを防ぐためにガスプレッシャーレギュレーターを取り付けて、ガスの圧力を安定させるわけだ。実はこの肝心要のガスプレッシャーレギュレーターを取り付けず、かつ、応答の遅いサーモスタットをつけていたのだから冷凍肉は焼けるわけはなかったわけだ。

しかも当時のグリドルは単一のハンバーガーを焼くために一つのグリドルの巾が1.5メートルもあるグリドルだったが、1人の人間が作業するには大きすぎるし、2人の人間が入るには狭すぎた。また、異なる種類の肉を焼くには向いていなかった。米国の店舗ではクオーターパウンダー(QP)という通常の肉の2.5倍の重さの肉を焼くために,店舗には3台のグリドルを入れるようになっていた。つまり、グリドルの形、性能,数量の全てが異なっていた。

トースターも同じだった。色々サーモスタットを改善したが、温度むらは完全には解決しなかったし、熱プレート面がゆがんでバンズに密着しないと言う機構上の問題も抱えていた。当時の日本のバントースターは24枚のバンズを同時に焼ける物だったが米国では12枚のバンズを焼くために複数のトースターを使用しており、火力も強いし、熱プレートの水平度の高い物だった。

もうひとつ当時困っていたのがスチーマーだった。フィレオフィッシュのバンズを蒸すのに使用していたのが旧型のスチーマーであり、水分中のカルシウム、マグネシウムの硬水分が水路に付着ししょっちゅう清掃が必要だったし、機械のがたがきやすく修理が頻繁に必要だった。当時の米国は12枚のバンズをそのままむせるような性能の良い物に変わっていた。

以上の違いを3週間足らずの短い間に発見させたのは米国の優れた研修システムだった。米国ハンバーガー大学は3階立ての立派な建物で、大講堂など下手な映画館よりも立派な映像設備を持っていた。それだけでなく、店舗で使用している全ての最新の調理機器を置き,受講生が分解してその修理方法を習えるようになっていた。さらに、オペレーションマニュアルだけでなく、エクイップメントマニュアルというのがあり,店舗で使用している調理機器の全ての取扱説明書と、修理方法、部品番号をきちんと書いてあり、マニュアルを見れば誰でも簡単に修理が出来るようになっていた。このマニュアルと、AOCの授業,実習用の機械から,日本と米国の調理機器の違いを学び取ることが出来たのだった。AOCで難しい機械のメインテナンスもきちんとしたマニュアルとトレーニングカリキュラムがあれば誰でも出来るようになると言うことは大きな驚きと共に,自分たちで改善しなければと思わされたわけだ。エクイップメントマニュアルや店舗の設計図を抱えて日本に持って帰ったのは言うまでもない。また、米国の調理機器はインチサイズであり、日本などのようなメートル単位でなく何時も修理の際に工具が無くて困っていた。米国研修時のショッピングセンター見学は絶好のチャンスで当時は世界最大の小売業だったシアーズにいき工具を買いあさったのだった。

店舗の見学は単に見るだけではなかった、訪問したら必ずハンバーガーを購入して食べると言うことを行った。一日に10件ほど見学するからそれだけで腹が一杯になる。しかし、まず食べてみないと何が違うかわからない、買ってみて初めてサービスのスピードがわかるという現実的なアプローチを徹底的に行わされた。勿論,マクドナルドばかり見ていると勉強にならないから,夕食には他のレストランチェーンに言って食事をしたのだった。当時、まだビクトリアステーションというローストビーフのチェーンが大繁盛しており、そこを訪問したときだった。マクドナルドのハンバーガーで腹一杯の筆者は(当時のクオーターパウンダーという113グラムの肉のハンバーガーを中心に10個以上は食べていた)メニューを見て、一番高いローストビーフを頼んだ。なぜかというと日本ではステーキ屋などで一番高いステーキを頼むとたいていは最高のヒレ肉で美味しいが量が少ないからだ。そう思って一番高いローストビーフを頼んだ訳だ。そうしたらウエイターが何か筆者に聞いてきたが当時は英語は全く理解していなかったから、適当に返事をしていた。ビクトリアステーションは日本にはまだ無かったサラダバーがあり、珍しい物だからぱくぱく食べていた。しばらくしたらローストビーフが運ばれてきて驚いた。筆者の頼んだのは一番高いサイドトラックというメニューでなんと重量が2ポンド、約900グラムもある巨大な物だった。ここで、残すと軍事顧問に連れてかえってもらえないという脅しを受けて(食べたらおごってくれる)、筆者は必死に食べ切った。廻りの米国人は体の小さな筆者に巨大なローストビーフが運ばれた物だからどうなんだろうと注目していたが、見事に食べきった筆者に盛大な拍手を送ってくれた。その時は良かったが、翌朝起きたときもまだ喉まで牛肉がつまり、さすがの筆者も翌朝の朝食は食べられなかったほどだ。こんな経験を積みながら日本と米国の価値観の違いを勉強していった。

そんなように訪問した店舗で徹底的に食べたので、調理機械の違いだけが品質の差ではないという事が胃袋で理解をするようになり、食材も違うというのだという発見をした。ハンバーガーパティはグリドルで焼く際に,ターニングしてから塩を振りかけるのだが、米国で見ていたら塩胡椒を振りかけていた。なぜと軍事顧問に聞いたら、日本で胡椒を入手しようと思ったらラーメン屋の白胡椒しかなく塩と混ぜて振りかけたらパウダー状の白胡椒はフワーットダクトに吸い込まれたから止めたと事だった。米国のマニュアルにもはっきりと塩と胡椒の割合を書いてある。あわてて胡椒の種類とメッシュサイズ、メーカー名を記録し、日本に持ち帰った。その他でも、バンズの品質の良さ、チーズの味の違い、ピクルスの品質,ケチャップ、朝食メニューなど数多くの品質の違いがあるのに気がつかされたのだった。

アルバイトの作業の生産性も大きな違いがあった。米国の厨房設計には標準レイアウトがあり、各機器間の通路巾、入り口からカウンターまでの距離、カウンターの巾、など作業の生産性を維持できるような標準化と理論が確立されていた。些細なことだが、厨房床の材質も大きな差があった。当時の日本の厨房は滑りやすくて、忙しいときなど段ボール箱を敷いて作業をした物だったが、米国の厨房は汚れのつきにくい煉瓦色のタイルで鉄粉を混ぜて滑り止めの効果がタイルの寿命と同じくらい長い物だった。また日本のタイルは客席も厨房も上薬がかかった物で、しばらく使っていると上薬がはげて、色が変わり見苦しくなってしまった。米国の物は金太郎スタイルで下地まで色が同じ材質でありすり減っても見苦しくなくタイルの厚さがあるかぎり使用できる耐久力の高い物であった。

標準店舗レイアウトももの凄く参考になったがマクドナルドの創業者レイ。クロックの氏がオープンした一号店が当時はまだ営業しておりそれを見学できたのが大変参考になった。驚かされたのがそのレイアウトが20年近くたった現在の店とそんなに変わらず、現役で商売が出来ると言うことだった。それだけ、当時のエンジニアの店舗レイアウトの素晴らしいアイディアと、耐久力を持たせた素晴らしい厨房だったわけだ。

さらにその天才エンジニアはまだ元気で新型厨房の開発を行っており、彼の開発した店や家を訪ねて色々勉強させてくれた。この天才エンジニアと話して勉強になったことは仕事に壁がないということだった。彼の本職は厨房のレイアウトの設計だが、実は店舗デザイン、看板デザイン、まで手を広げ、その他全自動のハンバーガー調理機器や、全自動のシェークマシン、ロボット調理システムなど大変巾の広い研究を行っていた。なぜそんなに幅広くやっているのかというと、好きだからだということだった。その仕事ぶりは変人奇人のたぐいで、彼のやっていた仕事は実は今頃20年以上たってから成果が出るような先進的な開発ばかりだった。例えば,現在マクドナルドで標準的なグリドルとして採用されている、クラムシェルグリルはその当時彼が、開発を開始した全自動のハンガーガー調理機器が原点であった。また、今、各社で使用している、全自動の(殺菌まで)のシェークマシンというのも当時彼が研究を開始した物だったし、卵の蒸気調理システムという概念を導入したのも彼だった。そして一番印象に残っているのは,図面を引く時だった。普通図面を書くときには製図台に向かって、専用の用紙できちんと書くのだが、彼の図面はマクドナルドの大きなナプキンに書きなぐるのだ。彼は四角四面の考え方が嫌いで、まっさらな紙に思いついたときに書き上げるという自由な発想を旨としていた。きちんとした図面が重要なのではなく発想が重要なのだということだろう。彼はマクドナルドの創業者のレイ・クロック氏と同じ東欧の生まれで、自らボヘミアンだといっていた。このクロック氏がボヘミアンであったという事はマクドナルドに大きな影響を与えていた。ボヘミアンだったクロック氏は音楽を楽しむ楽天家だった。それが50歳を過ぎてからマクドナルドを操業できた最大の原動力だったろう。だから、既成概念や大きい組織,官僚的な考え方が大嫌いだった。特に行動を規制されると言うのが大嫌いだった。だから、何かをやろうと言ったとき、「それは前例がありません。そんなことは出来ません」というの答えは大嫌いだった。まずやってみようというのが基本的な考え方で失敗をしても怒られないが、失敗を怖がって行動を起こさないともの凄く怒られると言う行動重視の考え方だった。だから仕事でも何か必要なことがあったらそれを誰かに依頼するとか、自分の仕事でないと,自ら行うことがないともの凄く怒られた。

この積極的な行動力、失敗をおそれるなという姿勢がこの旅行で最も勉強になったことで、それ以後の筆者の仕事が大きく変わるきっかけとなっている。そして、マクドナルドにおける調理システムの面でずいぶん色々の開発を行ったが,その最大の原動力となったのが、入社時の2週間の疑問点のメモと,この米国研修旅行だった。この際の写真アルバムを定期的に見ながらその後の10年くらいの開発をじっくり行うことが出来たのだった。

お断り

このシリーズで書いてある内容はあくまでも筆者の個人的な経験から書いたものであり、実際の各チェーン店の内容や、マニュアル、システムを正確に述べた物ではありません。また、筆者の個人的な記憶を元に書いておりますので事実とは異なる場合があることをご了承下さい。


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