header Food104 Food104 FSPRO-ML 会社案内 コンサルタント実績 王の経歴 過去の仕事 著作一覧

異才の料理人

月刊食堂1996年5月号

新マーケットを創造する異才の料理人(1)

熊谷喜八氏 (株)キハチアンドエス代表取締役

インタビュアー 王利彰氏


料理人としての才能に満ち、かつ卓越した経営者感覚を発揮する人はごくわずかだ。「キハチ」を展開する熊谷喜八氏はその数少ない一人といえよう。正統派フレンチの技量を持った熊谷氏がなぜ、「無国籍」と呼ばれる料理を作るに至ったのか。それはマネジメントへの開眼と密接に関係している。

喜八さんの料理は、葉山のラ・マーレ・ド・茶屋にいらしたときから食べていたのですが、あれは本当にすばらしい店でしたね。

熊谷

過ぎ去りし青春の時代ですね(笑)。フランスから帰ってきて、サザビー社長の鈴木陸三さんとシルバースプーンという店をやった後、ちょうど30歳ぐらいから40歳までラ・マーレにいました。それで独立して会社を作ったわけですが、もともと独立しようとは思っていなかった。36歳で製造の担当として取締役になり、私は日影茶屋とともに東京進出を考えたわけです。というのは、葉山での事業は上限が来ていましたから。今後は葉山は葉山で残して、東京に本拠地を移し、攻めていかなければならないと。ちょうどヘルシー志向の芽吹き時で、東京に出すなら食べる人の身体のことまで考えたものにしなければならない。そのためには料理も変えなければならないという発想でした。

名声をかち得たフランス料理のシェフである喜八さんが、今はフランス料理にこだわることなく、新しい料理を提案されている。そのあたりの変化というのも興味深いですね。

熊谷

フランス料理をずっとやってきて行き詰まりも感じていたのです。ここでちょっと醤油を入れたらもっと美味しくなるのにという場合がたくさんある。第一、フランス料理のソースって非常に高いんです。フランス料理はコストコントロールができないということの象徴みたいなもんです。最低でも100ccはワインを使わなければならない。人件費はコントロールできるけど、バターやクリームは削れない。

日影茶屋は一番最初に表参道でチャヤ・ブラッセリーをやりましたよね。

熊谷

あれは、本拠地というより砦程度の規模でしたね。私自身は300席ぐらいでマーケットも大きく設定した店にしたかったけれど、そうなると投資も10億円、20億円になりますからね。

もともと大型店志向があったのですか。

熊谷

ええ。パリにクーポールというレストランがあって、500席ぐらいでレストランとマーケットが渾然一体となっていた。その店にすごく感動したんですよ。あの大きさのレストランを東京のど真ん中に作るというのが私の料理人としての夢だったのです。私がフランス料理を通して得た喜びを何百万、何千万の人々に伝えていきたいと思っていたんです。小さな店じゃできないでしょう。

その後独立されて、87年にマーケットを併設した青山キハチをオープンされた。こちらもすごい繁盛店になりましたね。その理由の一つは、リーズナブルな価格設定にあったと思うのですが。

熊谷

初めから価格は抑えるつもりでした。お客様が来てくれるという価格というのは分かっていた。ただ、それをやるにおいてはフランス料理では難しいことも知っていました。価格を下げるためには大量仕入れが必要になってきますから。マーケット併設構想はそこからでたんですね。

マキシムでは石鍋裕さんとご一緒でしたよね。今や石鍋さんのクィーン・アリスも大繁盛店ですが、喜八さんとはやっていることが全然違う。最初は同じところで働きながら、ここまで違ってきたという点にすごく興味を覚えます。

熊谷

あの頃はよくお互いの家を行き来していましたよ。彼の家へ行くとシルバーなんかをびしっと揃えて、純フランス料理がでてくるんですね。で、うちに呼ぶ時は料理は和洋折衷。私は大使館にいましたから、和洋中華、何でもできるんです。どちらかというと食を通じて楽しむというのが私の考え方で、彼は芸術家ということなのかな。

ただ、どちらもメニューを絞り、ターゲットも絞り込んで価格ゾーンは違うもののリーズナブルな価格で食べることができるレストランになっているというのも面白い。

熊谷

どうして彼がそうなったかは分かりませんが、私はどんどん経営者寄りになっていますから、店がそうなるのは必然でした。たくさんの人に夢を与えたいというなら、ポケットマネーで食べられる価格でなければなりません。その価格でどんなことができるか突きつめていって、今の料理が生まれたわけです。

青山での失敗があったからマネジメントに開眼できた

喜八さんの料理が変わったなと衝撃を受けたのは、実は青山キハチではなくセランなんですよ。

熊谷

セランの場合は、大きい店だからキッチンからテラスの先まで歩く距離が長くてオペレーションが大変なんです。この距離の不便さをどう克服するかと考えると、客席へ行く回数を少なくしなければならない。例えばコーヒーはお変わりがないようにカップを大きくする。量を多くしても歩く人件費を考えればたいしたことない。それから長い動線で歩くと什器の破損がでるから、グラスも低いものにするか割れない材質のものにするわけです。料理も何度も運ぶのは大変ですから、前菜1品、メイン1品で済むようなものにして、それでも客単価が取れるメニューをと考えて変えていったのです。

この大きな銀座の店が生まれた背景にはセランでの工夫があるわけですね。

熊谷

ありますね。セランの失敗を直したところを取り入れています。青山キハチにしても、セランにしても失敗はたくさんあったわけです。そういう経験があるから、無駄を出さず、的確な戦略を立てて成功する店作りができるようになったんです。

え? あの青山キハチでも失敗はあったんですか。

熊谷

ありましたよ。10年前の12月に6,700万円売った時、収支はプラスマイナスゼロぐらい。それほど無駄が多かった。例えば人件比率で43〜44%ぐらいありましたから。結局自分が舞い上がっていて経費管理まで目がいかなかったんですね。で、労働が大変だからと人を入れてしまうわけです。でも教育する人がいないからボーッと立っているだけ。それでもお金は出ていきますからね。

なるほど。ところでキハチの料理は無国籍と言われていますが、私にはアメリカ的なアプローチだと感じられる。特に大皿での華やかな盛りつけやボリューム感なんかアメリカ的ですよ。

熊谷

アメリカの影響、それはすごくありますね。アメリカはシステムからしてフランスより進んでいます。フランスのアプランティは日本の徒弟(見習い)と同じですから、アプランティの時は給料が出ない。それは今でもそうです。アメリカは全然違います。覚えたら時給を上げろと言ってくる。ですからシェフは今の時給の中で何をさせるか明確に指示を与えていかなければならない。

相当なマネジメント能力が要求されるわけですね。

熊谷

極端になってくると、シェフの下は全員単純労働者です。それでいて、あるレベルの料理を作り経費管理もできないとまず繁盛は無理。アメリカにはそんなシビアさがありますね。アメリカから学ばない限り、日本のフードビジネス、特に私達のような洋食業態は明日がないと思っているぐらいです。

アメリカもさることながら、台湾にも行かれたそうですね。台湾での経験はキハチ料理に影響を与えたんですか。

熊谷

台湾に行ったのは15年前で、あるレストランの技術指導で2ヶ月に1度くらいの割合で行っていたのです。向こうの要望は、当時、魚を生で使ったりしてフランス料理としては斬新だったラ・マーレの料理を教えてくれということなんですが、まず素材が違うんです。魚の鮮度が違う。豚肉も牛肉も肉質が硬い。野菜も日本では見ない使ったことのないものばかり。それに致命的なのはワインもクリームもないからフランス料理ができないんです。これで挫折しました。そのころはコンクールで賞を取ったり、ラ・マーレも成功して天下を取った気分でいたのに材料がなくてできないなんて。フランス料理は何と脆弱なのかと。フランス料理はやめよう、日本の僻地でもできる洋食をやろうと思った。それがキハチ料理の原点なんです。

新規採用の人間でも半年でキハチの料理を作れます

喜八さんは料理人からスタートされたわけですが、先ほどおっしゃったように経営者としての顔が非常に強くなってきているような印象があります。その転機はいつごろ訪れたのですか。

熊谷

セランを出した次の年に相模原の伊勢丹にキハチ他2店舗を出店したんですが、そこで食中毒を出してしまった。その結果、1月から4月までで3,000万円の赤字です。株式会社というのは赤字を出せば社長責任ですから役員会で副社長に降格が決まった。その時はやめようかと思いました。というのは、それまで仕事一筋で全力投球でやってきたんですよ。それが降格でしょ、すごいショックなわけです。春に降格されていつやめようかと思っていたのですが、その年の12月に実は伊勢丹でケーキがすごく売れたんです。それで販売の女の子たちを励ましに行ったら、こっちは内心シュンとしていたんですけどね、女の子たちはみんな半分徹也で燃えて売っているわけですよ。「ケーキ○○個売れました!」って言って。それを見た時、ハッとしましたね。自分の女々しい気持ちで会社を潰してはいけないと思いました。それからもう一度頑張ろうということで、全部見直していったのです。スーパーマンになるのをやめて皆の話を聞くようになりました。

一歩下がって客観的に見るようになったのですね。

熊谷

そうなんです。私は運が強いから日本に帰ってきてから連戦連勝だった。15歳の時から世の中にでて流浪の人生だったから、動物的直感も強い。ものが見えるから100%成功していたんです。伊勢丹の店だけですよ。初めからここは危ないなと思っていたらその通り失敗した(笑)。でも、あの失敗で"熊谷天皇"をやめて人間熊谷として、皆の話を聞いて組織としてどう動くべきかを考えるようになった。それで部下が全員伸びてきて、会社の体質が強くなったんです。

具体的には直したことはどんな点だったのですか。

熊谷

原価から何からすべての洗い直しです。それで写真入りですぐ分かる現在のレシピを作ったわけです。これをやれば正確な食材原価がでますし、今どれだけの食材を使っているのか把握できる。そうすればこんなに食材は必要なのかということが分かり、次のメニューからは食材をどんどん絞っていくことができるでしょう。在庫も少なくなるし、そういう部分が明確になっていくと、働く人の労働時間も短くなっていくんです。3年間出店を止めてそれを徹底してやってきたわけです。

そのレシピの活用ということでは、銀座店の従業員は新たに集めた人達がほとんどなのにキハチの料理がきちんとできている。これもすごいことですね。

熊谷

自分の料理を徹底的に分析して、このやり方ならある程度のレベルの人間ならできるという方法論を作ってきましたから。ここでは私が料理長になって、その下に4人の副料理長をおいていますが、既存の店から来たのは一人だけで後はみな新規です。そのかわり、私の横で直接勉強させて、きちんとレシピを書いて指示しています。最初のうちはブレもありましたが半年で軌道にのりました。

そうなってくるとチェーン化も当然、視野に入っている。

熊谷

全国制覇です。ただ、相模原でやってみて無国籍料理では訴求力が弱いところもあるということが分かった。だから、キハチ・イタリアンとか、キハチ・チャイナも必要だなと思っています。出るエリアによってはキハチでいい、それが難しいところはもっと料理の国籍をはっきりさせた方がいいと思います。キハチ・イタリアンはすでに準備に入っています。できれば銀座にもチャイナとイタリアンを1店ずつ出したい。まだまだマーケットは空いてますもの。

全国制覇ですか。それはすごい。今から楽しみですね。

熊谷

全国を制覇しているサザビーの"重飲食"、軽食の逆ですね、これは我々がやると決まっていますから。その第1弾が福岡のキハチでした。そうした地方の出店ができるのも会社の体質が強くなったからです。銀座店にしても損益分岐点は5,000万円ぐらいですが、1億近く売っています。これだけ利益を出せるようになると借金が怖くなくなってきます。

それはすばらしい。喜八さんの次の一手がますます楽しみになりますね。

インタビューを終えて

シェフとしての名声も数多くのファンもかち得ている喜八さんへのインタビューということで、調理に関する話が中心になるかなと思っていたが、実は経営上の数多くの試練を受けてきたことがよく分かった。あの柔らかい笑顔の陰には厳しいビジネスでの試行錯誤があったのだ。なるほど、いくら銀座とはいえ、5,000円のコース料理で月商1億円を売り上げるのは並みの才覚ではできない。今の喜八さんは料理だけでなく「ビジネスでの成功」というレシピも完成させつつある。

変化し続けること、それがキハチの強さだ

1975年、ジョエル・ロブション率いるホテル・コンコルド・ラファイエットに在籍中だった29歳の熊谷喜八氏は日本人として初めてフランス・アルパジョンの料理コンクールでプロスピエール・モンタニエ杯受賞という快挙を遂げる。

帰国後、一躍脚光を浴びたのは神奈川県・葉山のラ・マーレ・ド・茶屋料理長に就任してからである。新鮮なイワシやアジなどの地の魚を使った熊谷氏の料理は、従来のフランス料理の常識を覆すものであり、東京からも多くのお客が押し寄せ、同店はたちまち繁盛店となった。

茶屋時代の熊谷氏の料理はしかし、まだ「フランス料理」であった。これが現在「無国籍料理」と称されるまでに変化を遂げたきっかけは、インタビュー中にも語られたように、台湾での挫折感、そして店舗の大型化にあったのである。

熊谷氏の才能を語る上で大切なのは常に「お客のニーズをお客より一歩先んじてつかまえる」ことができる点である。先見の明があり、かつ、それをもとに柔軟に自分の料理を変えられるマーケット・イン発想があったから、キハチの今の成功があるといって過言ではないだろう。新しい店を出すたびに熊谷氏の料理のスタイルは大皿化し、アメリカ料理の影響を受け、常に変化し続けた。料理人は概して「このような素晴らしい料理を作ったから食べて欲しい」と思う。いわばプロダクト・アウト発想である。熊谷氏にはその執着がない。こだわるのは安全で美味しい食材を使うという一点だけなのである。

87年、日影茶屋から独立。サザビーとともに(株)キハチアンドエスを設立し、現在、青山2店舗、相模原3店舗、福岡、高輪、銀座に1店舗を擁する(セランは明治記念館からの運営委託)。今後も出店を拡大する予定だ。


Home Index
           
会社案内
コンサルタント
王の経歴
著作
セミナー
通信教育
           
王利彰への、ご意見ご要望はこちらへご連絡下さい。
その他ご質問・お問い合わせはこちらからお願いします。
Copyright(C) Sayko Corporation. All Right Reserved.