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月刊厨房 2011年11月号
米国外食産業の歴史とイノベーション 第九回目


第10章 ファスト・フード時代

レストランの大衆化と自動車社会の到来がファミリー・レストラン、ファスト・フードを誕生させるようになった。ピルズベリーPillsbury Richardは「2,400店のチェーンレストランが米国に開業していた。 1920年から1930年の間に、レストランは贅沢品から必要な日常品に変化したと述べている 。」

1)ファスト・フードの誕生
1919年ロイ・アレンRoy Allenとフランク・ライト Frank WrightがA&Wを設立し最初のファスト・フードの誕生となる。カリフォルニアのビジネスマンのRoy Allenはルートビアー(root beer薄荷味のコーラ飲料)のレシピーをアリゾナの薬剤師から購入し、1919年6月に最初の試作をした。ハーブとスパイス、ベリー(イチゴ類)、木の皮を混ぜたものだった。一杯5セントで販売した。3年間で3店舗開店し、従業員だったフランク・ライトを共同経営者にして,両者の名字の頭文字をとってA&Wと名付けた。その後、アレンはライトの権利を買収しフランチャイズ展開を開始し、外食産業のパイオニアとして知られる存在となった。
1921年に最初のドライブインが誕生する。自動車産業が栄え始めたころ、ダラスで煙草とキャンディーの卸売業を営んでいたカービーJ.G. Kirby は車で移動する人は車から降りて食事をすることが面倒くさいと感じていることを発見し、ルーベン・ジャクソン博士Dr.Reuben Wrigth Jacksonの助けを借りて1921年9月に豚のバーベキューを提供する、米国で最初のドライブイン、店名「ピッグ・スタンドthe Pig Stand」をダラス・フォートワースの高速道路に開店した。ウエイターやウエイトレスは車にトレーに乗せた料理を運ぶので、カーホップCarhopsと呼ばれるようになった。ハリウッドのコーラスラインが着用するようなお洒落な制服を身にまとった。その後の10年間でカービーと彼のフランチャイジーはピッグ・スタンドを中西部からニューヨーク、カリフォルニアに至るまで60店舗をチェーン展開した。

1927年7月の蒸し暑い日にユタ州から来たモルモン教徒26歳J・W・マリオットJ.
Willard Marriottは後に結婚するアリス・シーツAlice Sheetsと共にワシントンDCの街かどで群衆を眺めていた。その時に冷たい飲み物を提供するA&Wが大繁盛をしているのを見て、フランチャイジーになることを考えた。すでに従兄弟のシャーマン・マリオットSherman Marriottがフォート・ウエインでA&Wのフランチャイジーになっていたこともあり、ジーになることを決めた。そして、$3,000ドルを持ってパートナーのヒュー・コルトンHugh Coltonと一緒に9席に小さなルートビアースタンドをワシントン市に開店した。MarriottとAliceは朝から晩まで一所懸命に働き、最初の年に$16,000ドルの売上を記録した。そして、冬に寒いワシントンで成功するためにフランチャイザーのアレンの許可を得て、種類の豊富な暖かい料理を追加した。後にマリオットは外食とホテル業で大成功を収めた。

1921年にホワイト・キャッスルが最初のハンバーガー・チェーンとして誕生した。レストラン経営者のウオルター・アンダーソンWalter Andersonは1916年にグリルの上に置いた玉ねぎのみじん切りの上で蒸し焼きにした(低温のグリルの上に置いた玉ねぎが発生する蒸気で、その上のハンバーガー・パティを焼き上げる、いわゆるスロークッキング)ハンバーガー・パティをパンに挟んで5セントで販売する移動式レストランを数店舗経営しており、新店舗を開業するに当たり、共同経営者を探していた。当時、不動産と保険のセールスマンをしていたE・W・イングラムEdgar Waldo Ingramがアンダーソンと知り合い、カンサス州ウイチタWichita, Kan.にホワイト・キャッスルを開業したのがハンバーガー・チェーンの始まりだ。イングラムは店名を清潔で長く継続するようにとホワイト・キャッスルと名付けた。1933年にはイングラムはアンダーソンから会社の株をすべて買い取っていた。そして、目立つ白いお城の外観(シカゴのウオーター・タワーを模して造った)と美味しいハンバーガーで大繁盛をし、10年後には115店舗になっていた。数年後には11の州にフランチャイジーを設けた。しかし、まだスピードやセルフサービスを売り物にしたファスト・フード形態ではなかった。そして、小さなハンバーガーを「袋ごと買おうぜ」"buy em' by the sack." という標語をつけた。イングラムはホワイト・キャッスルが定めた調理レシピーに厳格に従うように従業員やフランチャイジーに要求し、どこの店舗でも同じ味を出せるようにし、その仕組みは後のファスト・フードの標準的な考え方となった。従業員の身だしなみも写真入りで、具体的な服装の注意点を誰にでもわかるようなマニュアルを作成した。また、販促面でも5つのハンバーガーを10セント(本来は25セント)で販売する割引券を新聞折り込みで配布するなど販促面でも工夫を凝らした。また、後のファスト・フードの標準となった、持ち帰り用の耐熱包装容器や紙ナプキンを開発した事でも知られている。そのホワイト・キャッスルを多くの企業が真似をしたが、その一番有名なのはミルウオーキーのホワイト・タワーWhite Towerである。そして、1930年には両社は真似をしたとして法廷で争うことになった 。ジェフリー・テニソンJeffrey Tennysonは、「ホワイト・キャッスルは、外観などのイメージ、メニュー、サービス、等を標準化したという点で後のファスト・フードの原型となる。身だしなみの点では初めてペーパー・キャップを開発して、衛生面と従業員の衛生面とアピアランス外観の向上を実現した。品質面では冷蔵のハンバーガー・パティから冷凍のパティに変更し、四角いミートパティに5個の穴をあけ、火の通りを良くするという改善を行った。1956年には1年間で91,566,342個のハンバーガーを販売した。」としている。
ホワイト・キャッスル創業を詳細に述べているのが Hogan, David Gerardが1997年に執筆したSelling ' em by the Sack その詳細を見てみよう。

第11章 米国発のハンバーガーチェーンの誕生
1920年代はローリング・トエンティーズと言われるように豊かな米国がダイナミックに変化をする時代であった。禁酒法、女性に選挙権が与えられる、商業ラジオ放送開始、自動車の普及、高速道路の建設、アルコール消費の減少、等の社会的な変化がおき、更に、人々の態度や行動に大きな変化が出た。多くの歴史家はこの1920年代が現在に続くアメリカの文化を確立したと見ている。その一つがハンバーガーの誕生だ。
 1920年までにはまだファスト・フードは誕生していなかった。しかし、1930年にはファスト・フード業態は既に都市部や高速道路沿いなどに多店舗展開をしていたのだ。
ホワイト・キャッスルは1921年5月に誕生した。カンサス州ウイチタ市(Wichita,Kansas)に一人の調理人、J. Walter Anderson(ウオルト・アンダーソン)がいた。アンダーソンはカンサス州のセント・メリーズ(St. Mary's)の農家で1880年に誕生した。アンダーソンの父親はスエーデンからの移民だった。アンダーソンはミズーリー州セダリア市(Sedalia)の小さな大学(短大)を卒業し、カンサス州のボールドウィン(Baldwin)に移りベイカー大学Baker Universityに入学した。学費と生活費を稼ぐために大学の雑用係のアルバイトをし、あばら屋に住んでいた。あばら屋の凍りつくような寒さに閉口したアンダーソンは2年後には大学を中退してしまった。その後、1年ほど皿洗いや調理人の仕事をしながら中西部の町を転々としていた。
 そんな自堕落な生活をするアンダーソンの将来を案じた父親は1905年にカンサス州マルケット(Marquette)にレストランをアンダーソンのために購入してやった。しかし、1年後にはそのレストランの仕事にも飽きてレストランを売却し13名の楽団員を集め各地を回ってステージショーをするようになった。しかし、ステージショーのノウハウの全くないアンダーソンは3週間で行き詰まり、サンタフェ鉄道の列車に飛び乗って、沿線のトプカTopekaに向かい、ホテルの調理人の仕事を得た。
 仕事が長続きしないアンダーソンであるが、彼のイリノイ州にいる2人の兄弟の一人は株取引で大成功し、もう一人は新聞社の編集長となっていた。
 アンダーソンの次の仕事はサザーン・パシフィック鉄道Southern Pacific Railroadの調理人の仕事であった。鉄道の仕事で西部のネバダ州やユタ州を転々とした。ユタ州で結婚してカンサス州に1912年に戻った。
 
ウイチタ市で低賃金の調理人として働きながら、アンダーソンはひき肉料理の色々な調理方法を試していた。ひき肉を異なる形に整形したり、つけ合わせる調味料を色々変えてみた。彼の顧客に最も評判のよかった料理は、平たいミートパティにオニオンを乗せ、パティの両面をオニオンと共に焼きあげ、スライスしたパンの替りにバンズに乗せて提供するものだった。この伝説的な発明は偶然のものだった。アンダーソンはミートボールを調理していたが、調理に時間がかかるのにいらいらし、ミートボールをスパチュラで叩いて平らにして焼いてみた。そうすると早く調理できるし、顧客もその味を気に入ったのだった。これが現在のハンバーガーの誕生だったのだ。
 その調理が評判になり、アンダーソンは自らレストランを開業することにした。しかし、調理人の社会的な身分の低い時代であり、銀行家はなかなかお金を貸してくれなかった。何軒も銀行を歩いてやっとのことで80ドルを借り、800 East Douglas Ave.にあった古い靴屋を借り上げた。お店は小さなカウンターに3つの椅子しかなかった。調理は平たい鋳物の鉄板で行うことにした。壁には調理に使う幾つかの器具をかけていた。そして、ドアの外に「ハンバーガー5セント」と言う看板を掲げたのだった。
 アンダーソンが掘っ立て小屋のようなお店を完成させたが、営業するに必要な食材を買うお金が無かった。困ったアンダーソンに、地元の食料雑貨商のウイリアム・ダイWilliam A.Dyeが初日の営業に必要な5ポンドの牛ひき肉(1ポンドあたり10セント)と必要なバンズを、営業日の昼までに支払うという約束で供給をしてくれた。そして、1918年11月16日にハンバーガースタンドを開店した。お店は大繁盛し5セントのハンバーガーは売り切れとなり、借りた食材の費用は昼までに直ぐに支払うことができ、翌日分の食材を購入した。当日の売上は3.75ドルだった。

初日の売上は良かったが、使っているハンバーガー・パティを焼き上げるグリルに改善が必要なことがわかった。グリルでハンバーガー・パティを焼きあげると肉汁が溢れてしまうのだ。その他にも細かい問題が発生したが、アンダーソンは直ちに対策を取った。また、顧客が何を望んでいるかも観察し、それに応えるように調理方法や、味付を変えていった。
アンダーソンは購入する牛ひき肉の品質に満足できず、カウンターの後ろの顧客からすべて見える場所で、自ら牛肉の塊からひき肉を作るようにした。また店内の清潔さを維持しにくい構造にも対策を取った。
 グリルを改善し綺麗な状態が保たれた店舗で、品質の高い牛ひき肉を目の前で調理した美味しいハンバーガーを食べた初来店の顧客は直ぐに常連客となっていった。その評判はあっという間にウイチタ市中に広がり、売上はますます上がっていった。当初のメインの顧客層は工場の短期労働者や新聞配達、仕事を探している人たち等だった。
 アンダーソンはある時、労働者らしからぬ少年が6個のハンバーガーを注文して持ち帰るのを不思議に思った。後をつけてみると近所に停車した高級自動車で、少年の母親が待っているのを見た。母親は労働者たちが利用する小さなお店を自ら利用するのが恥ずかしいので、子供を買いに行かせたのだった。
 しかし、一般的な顧客はお店の近隣にある工場労働者達であり、開店から2年でウイチタ市内に4軒のハンバーガースタンドを開店した。そしてアンダーソンはハンバーガーを1つずつ販売するのではなく、6個づつ販売することを思いついた。そして、「袋単位で買おうぜ Buy'em by the Sack」と言うスローガンを打ち出した。それが顧客に受けて売上はさらに上がるようになった。
 アンダーソンはハンバーガーの品質を高めるために、バンズをキャンベル・ブレッド社Campbell Bread Companyから購入する契約を締結した。みすぼらしい店舗は初めて利用する顧客を逃すことになるので、店舗の外観をきれいにし、店内もきちんと清掃するようにした。そのような努力が実り、貧しい調理人だったアンダーソンはウイチタ市一等地の見晴らしの良い丘に12,000ドルで立派な家を建てるまでの金を稼ぐことができた。地元の新聞はそのアンダーソンの成功を高く評価し、ハンバーガー王と評価するようになり、アンダーソンは地元の名士として扱われるようになった。

このアンダーソンの成功にもかかわらず、ハンバーガースタンドは労働者向けの安っぽい食堂であり、牛ひき肉のハンバーガーは貧乏人のひどい食事だというイメージからは脱却することは出来なかった。当時は禁酒法が施行されたばかりであり、街かどで経営するみすぼらしい飲食店は禁酒法の規制を逃れてお酒を販売する場合が多く、マフィファが経営する場合もあった。そのため、街かどで経営するハンバーガースタンドのイメージも低いままであった。しかし、アンダーソンはさらなるビジネス拡大を考えていた。
 1921年には成功したハンバーガー王としての知名度を持つアンダーソンであったが、新店舗開業をしようと銀行に行っても借入は難しかったし、ハンバーガースタンドを借りようと大家に申し込んでも、地元のビルの所有者はハンバーガースタンドのような安っぽいお店に貸したくないと断られることが多かった。
 ある時に地元の歯科医の所有する不動産を借りようと交渉したら、歯科医は心配して保証人を立てるように要求した。その際に不動産交渉を保険販売と不動産事業を営んでいたビリー・イングラムEdgar Waldo Billy Ingramに依頼した。イングラムは不動産交渉を仲介するうちにアンダーソンのハンバーガービジネスの将来性に着目するようになった。イングラムは以前に投資会社(Dun and Bradstreet社)で働いた経験があり、資金調達や企業経営に詳しかった。そこで、イングラムは賃料700ドルの不動産の保証人になることにし、アンダーソンのビジネスの共同経営者になった。そして、保険業と不動産事業を共同経営者だった友人に売却し、アンダーソンが社長、イングラムは副社長としてハンバーガービジネスに専念することになった。この二人の出会いが米国初のハンバーガーチェーンを誕生させたのだった。

イングラムはコロラド州リードビルLeadvilleのトタン屋根の2部屋のみすぼらしい家で1880年12月28日に誕生した。地方公務員の父親のチャールズ・イングラムCharles W.Ingramはイングラムが2歳の時に牧場経営をしようとコロラド州の牧場に移住した。2年もしないうちに慣れない牧場経営を諦めて、オマハ市でユニオン・パシフィック鉄道Union Pacific Railroadで働くことになった。1897年にはミズーリー州のセント・ジョセフSt.Josephに引越しし、チャールスは小さな鉄道会社セント・ジョセフ・グランド・アイランドSt.Joseph and Grand Island Railroadに転職した。直ぐに鉄道会社は破産してしまい、チャールズは手洗いの洗濯屋を開業することになった。幼いイングラムは父親の洗濯屋を手伝いながら高校を卒業した。卒業したイングラムはオマハ市に移住し5年間新聞社に勤務し、家畜のレポートやオマハ・ビー紙Omaha Beeの編集の仕事をした。次に、アイオア州の農機具部品製造会社に転職をしたが、その会社は1年後には破産してしまい、イングラムはオマハ市に戻り、オマハ・エクセルシアーOmaha Excelsior紙の編集の仕事についた。イングラムは編集の他に、広告の販売と会計、印刷などの仕事を2年間ほど務めた。1905年にネブラスカ州の旅行会社アール・ジー・ダン社R.G. Dun and Comopany(後にDun and Bradstreetと名称変更し投資会社となった)に転職し、2年後にウイチタ市の支社に転勤した。
 経済成長をしていたウイチタ市を見たイングラムは1年後に退職し、自ら保険会社の代理店ヤンキー社Yankey and Companyを共同設立し経営することにした。その後13年間、保険販売、石油販売、不動産業を営み繁盛させていた。1921年にはイングラムはストーン・イングラム社Stone and Ingramの共同経営者として保険と不動産業を経営するようになっており、地元で名士として評価されるようになっていた。
 
アンダーソンとイングラムがどのように知り合ったかは定かではないが、両者ともにフリーメイソン会やロータリークラブの熱心な会員であり、それらの活動で自然に知り合ったと思われる。最初はアンダーソンがハンバーガービジネスで成功し豪邸を購入する際にイングラムに不動産交渉を依頼し、次に店舗を借りる際に保証人になってもらったのだろう。ウイチタ市のビジネスマンは、何故イングラムが成功している保険会社と不動産の仕事を辞めて、胡散臭いハンバーガースタンドの経営をするのだろうとか、レストランビジネスの経験の無いイングラム(広告宣伝の多少の知識はあった)がハンバーガースタンドの経営に乗り出すのは無謀だと思っていた。しかし、二人は成功を確信していた。
 共同経営に乗り出す頃にはアンダーソンの成功を見て、彼らのハンバーガースタンドを真似る店舗が急増し、競争は激化していたのだった。アンダーソンの仕事は顧客の要望に応じた美味しいハンバーガーを製造することであり、イングラムの仕事は会社の成長に必要な財務的な管理手法の導入と成長戦略、そして競合のハンバーガースタンドとの差別化であった。イングラムは1921年に共同経営者になった後、直ちに会社経営のやり方や経営理念を変更した。
 イングラムの最初の課題は牛ひき肉を使うハンバーガーの品質に対する顧客の不信感を取り除くことだった。そこで、店名の変更と顧客に目立つような建物の設計を行うことにした。そして、会社名をホワイト・キャッスル・システム・オブ・イーティング・ハウス・White Castle of Eating Housesとした。会社名の白Whiteは純粋で混じりけの無く清潔さを意味し、城Castleは強く安定して能力がある事を意味する。イングラムは他の安っぽいハンバーガースタンドに差別化をし、顧客の信頼を高めるような建物に変更することにしたのだった。
 建物のイメージはシカゴにある真っ白な石造りで、堅牢な中世の城のような外観のウオーター・タワーWater Tower と言う給水塔であった。このウオーター・タワーはシカゴの1871年の大火災の被害にも合わずに残った建物であり、シカゴの歴史的遺産として現在でも観光名所となっている。新しい店舗デザインに特徴のある塔は強さと信頼性を意味し、白い外観は商品の純粋さと店舗の清潔さを意味するものであった。清潔さでは建物以外に、調理や販売担当者とは別に清掃専門の従業員Clean−Up Manに店舗の隅から隅まで清掃させ、清潔さを顧客にアッピールするようにした。

以下続く

参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops, Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and Company, Inc. New York

Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America 
Bantam Books

Tennyson、Jeffrey(1993) Hamburger Heaven: The Illustrated History of the Hamburger Hyperion Publishers

Hogan, David Gerard(1997)Selling ' em by the Sack New York University Press

 


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