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月刊厨房 2011年10月号
米国外食産業の歴史とイノベーション 第八回目


第9章 ファスト・フード誕生前

1)移民による食生活の多様化
1683年にドイツからの最初の米国への移民は1683年に始まり、1816年〜1817年には大量の移民が発生した。そして、1850年〜1860年に第2の移民ブームとなり、当時の米国移民の1/3がドイツからの移民であり、最盛期の1880年には合計で144万人のドイツ移民となった。その後、段々とドイツからの移民は減少していった。ドイツの移民はドイツ料理を米国に紹介していった。その中でもドイツ人の大きな貢献はビールの醸造であり、ビールをサービスする巨大なアウトドアーのビアホールも開業するようになった。しかし、ドイツ料理店は第1次世界大戦、第2次世界大戦の際に、人気がなくなってしまった。

1880年からイタリア移民が増加し、米国の食生活に大きな影響を与え、米国の豊かな食材と融合していった。イタリアからの移民の8割はローマから南の地域、特にシシリーとナポリからが多かった。1880年から1910年の間のイタリア南部からの移民は500万人であり、1880年から1920年の移民の25%はシシリア出身であった。イタリア南部の農家出身者の食生活はヨーロッパの影響よりも、距離的に近く貧しい地中海沿岸の影響を受け、肉類の消費は少ないが、野菜、穀物、フルーツトマトを大量に摂取していた。イタリア・アメリカン料理で多用されるトマトは16世紀にヨーロッパに入ってきており、ヨーロッパではまだ食用に供されていなかった。そしてイタリア南部からの移民の多くはニューヨークのエリス島経由で入国し、東海岸特にニューヨークに居住する人が多かった。貧しいイタリア移民たちは外食よりも家族で料理を作って食べることが多かった。また、ナポリのピザや、ラザニア、ミート・ボール・スパゲティという、イタリアでは食べることのあまりない、食生活をイタリアン・アメリカン料理として食べるようになった。米国最初のピッツエリア(Pizzeriaピザ屋)はニューヨークのリトル・イタリー(イタリア人街)に1905年に開店した、ロンバルディG.Lombardiだ。シカゴスタイルのディープディッシュ・ピザはアイキ・シウオルIke Sewall とリック・リカルドRic Riccardoによって1943年にピッツエリア・ウノUnoが誕生した。そして、第2次世界大戦で南イタリアに進軍した経験のある軍人が帰国すると現地で馴染んだピザを食べたくなり、ピザはファスト・フードとして普及するようになる。しかし、イタリア移民にとってピザは最も貧しい食事であり、段々本格的なレストラン、リストランテに変貌するようになる。また、ピザよりもイタリアンブレッドにサラミや野菜などを挟んだサンドイッチを提供するようになってきた。

そして、野菜や穀物が中心の南イタリア料理は、米国人の好みに合わせて、スパゲティであればミートボール・スパゲッティになり、その他子牛のカツレツ、ステーキや、骨付きの豚肉、等、米国に豊富な肉類を付け加えるようになった。また、料理の名前もイタリアとはかけ離れた米国独特のものになっていった。西海岸のサンフランシスコにはイタリア北部出身者が多く住むようになり、禁酒法の時代には闇の飲み屋を経営していた。地下で闇のワインを醸造し、奥さんはキッチンで料理を造って提供する家族的な店だった。禁酒法が解除された後には魚料理を中心としたレストランや、ビジネスを経営するようになった(現在のフィッシャーマン・ウオーフにその名残が残っている)。南部のセントルイスに移住したイタリアンは地元のクレオール料理と融合したレストランを開業するようになった。そして、それらのアメリカ・イタリアン・レストランは安価でボリュームのある料理を提供するので大人気となった。その他、南北戦争以後に移民したヨーロッパやアジアの人々は自国の料理を米国に持ち込んで、豊富なエスニック料理のカテゴリーを形成していった。1882年からのユダヤ人移民もアメリカ人の食生活に大きな影響を与えた。欧州の、ドイツ、ロシア、ルーマニア、ポーランド、ハンガリア、フランス、などから1882年から1924年の間に移民したユダヤ人の数は230万人に上る。ユダヤ人の料理や食物はユダヤ教の司祭が厳密にチェックするコーシャ・フードと呼ばれ、品質が良いという長所があった。しかし、ユダヤ人の移民はレストランを経営することは少なく、食肉業やデリカテッセンというドイツ系ユダヤ人の加工肉製造販売を経営することが多く、デリカテッセンという言葉が英語に定着した。また、加工肉のサンドイッチやホットドックをカウンターで売るビジネスを開始した。

1850年〜1882年の間に中国から32万人以上の移民があり、彼らの99%は西海岸に居住した。多くの中国人は鉄道建設や鉱山労働の重労働につき、やがて自らレストランを開業するようになった。彼らの多くは各都市にチャイナタウンを形成するようになった。
 その他、世界からの移民は数多く、その移民たちが米国の多彩な食生活を彩るようになるのである。

2)自動車の普及による外食への影響
 1930年には米国の州は48になり、人口は1億2,300万人になった(10年間で3,000万人増加)。人口の増加のほとんどは、西部と東部の郊外であった。その当時には、高速の蒸気船、高速鉄道網、飛行機が発達し、従来は数日かかっていた東海岸から西海岸への移動が数時間で可能になるという移動手段の整備が行われていた。そこで人々は、大恐慌により、新しい仕事を新天地に求めるため西部に移動を開始した。
 移動手段を見てみると1930年には米国における自動車の所有台数は2,600万台に上っていたことが分かる。そして、自動車のための高速道路が大恐慌の時代にも毎年数千マイルづつ開通していき、自動車の普及は米国人の生活に大きな影響を与えるようになった。
 車を所有する人々の楽しみは車に食べ物をたくさん積んで、ピクニックに行くことだった。そして、食べ物が車にない場合には道路沿いのレストランを必要とするようになった。この生活の変化に対応して、高速道路沿いのレストランが続々と開店を始めた。そして、1920年から1930年の間に、ダイナーDiner、カフェテリアCafeteria、飲料スタンドSoda Shop、ランチハウスLuncheonette、オートマットAutomat、バーベキュースタンドBarbecue Stand、ドライブインDrive In、軽飲料スタンドRefreshment Stand、アイスクリームパーラーIce Cream Parlorや、チェーンレストランが続々と誕生した。これらの急速な展開を可能にしたのは続々と開通する高速道路であった。
チェーンレストランが開店するには以下の生活必需品の開発があった。

<1>家電製品
1890年にコーヒーマシン(コーヒー・パーコレーターCoffee Percolator)が開発された。1915年GMの家電部門のフリッジデアリーFrigidaireが冷蔵庫発売を開始した。冷蔵庫の需要はあっという間に高まり、5年後には200社が冷蔵庫の製造に参入した。1931年には冷蔵機能にフレオンガスを使う冷蔵庫がフリッジデアリーにより開発され、食材が腐る恐れはなくなった。また、同時期にクレアレンス・バーゼーClarence Birdseyは野菜の冷凍方法を開発した。1921年にステンレススチール製フォーク・ナイフの開発。1924年に自動トースターが開発。1927年にステンレススチール食器が開発。1931年に電動ミキサーの開発。このように食生活の面で、自動化や高速化の恩恵を受けるようになった。また、プラスチックの加工技術が進み、清掃性がよくなり、内外装の色が明るくなり目立つようになった。
<2>加工食品の発達
1892年に瓶詰Bottlecapが発明。1922年に1ポンド整形バターが開発。1927年に牛乳のホモゲナイズが開発。牛乳中の乳脂肪を細かく砕いて消化をしやすくする手法で、子供が飲んでも消化不良を起こさないために普及し、幼児死亡率の低下に効果があった。1928年にスライス食パンの開発が行われた。1905年にはジュークボックスが開発され、あらゆる年齢層が集う場所に導入されるようになった。レストランは単に食事をする目的だけではなく、友人と会うためや、音楽を楽しむ、会話を楽しむ、噂話をする、家族が日曜日に集う、ビジネスマンが顧客を接待する、という多目的な、楽しむ場所になった。

3)ロードサイドレストランの誕生
1872年にロード・アイランドRhode Islandでウオルター・スコットWalter Scottが手押し車をヒントにパイオニアー・ランチ・ワゴンPioneer Lunch wagon(元々は幌馬車で旅行をする人を対象にした調理機器を乗せた馬車のことで、それをヒントに馬車の荷台を料理製造販売ができるようにに改造した移動式屋台)を誕生 させ、近代的なロードサイドレストランの時代の幕を開けた。通常の工場労働者の仕事は午後8時に終るが、その頃には通常のレストランは店を閉じている。そこで、茹で卵と、パイ、コーヒー、ひき肉を挟んだサンドイッチ、をランチ・ワゴンで調理し、熱々の状態で提供するようにした。そのランチ・ワゴンを真似した元警察官のルーエル・ジョーンズRuel B.Jonesは、顧客にサービスをするオープンカウンターを備えた、天井がガラス張りで敏捷な印象を与える明るい赤いワゴン車を開発して参入した。
1887年にニューイングランド博覧会New England Fairで、サムエル・M・ジョネッシャSamuel Messer Joneshaは、顧客が中に入れる大きさの、長さ16フィート(約5m)、幅7フィート(約2m)の食事ができるワゴンを800ドルで造り紹介した。中には調理場を備えステンドグラスを使用していた。

1891年9月に起業家のチャールス・パーマーCharles H. Palmerは幾つかのワゴンを開発し、特許を取得した。そして、そのワゴンを造り販売をするビジネスが誕生し、全米の各地の路上でランチ・ワゴンのビジネスが見られるようになった。後にランチ・ワゴン王と呼ばれるようになったトーマス・バックレーThomas H. Buckleyはニューイングランド・ランチ・ワゴン社New England Lunch Wagon Companyを設立し、1889年には全米の275の町にランチ・ワゴンを設置営業していた。1897年にはニッケルメッキのコーヒーアーン(大型のコーヒーマシン)、モザイクタイル、照明、黒檀の床ebony pedestalを備えた豪華なワゴンを開発した。バックレーはさらにワーセスターWorcesterにホワイト・ハウス・カフェと呼ばれる固定式のランチ・ワゴンを設置した。面積は18,000スクエアーフィート(1,674平方メートル)で、内装に縞大理石(メキシカン・オニックス)を使用し、ソーダファウテン(炭酸飲料ディスペンサー)を備えた豪華な造りだった。しかし、ニューイングランドでは人気の移動式ランチ・ワゴンは他の地域では営業が10時までに制限され、それ以上の長時間営業をするためには固定式にしなければいけないという問題を抱えるようになった。また、移動式ランチ・ワゴンは低所得労働者向けの安っぽく、けばけばしいイメージがあった。当時、ギリシャからの移民たちがランチ・ワゴンのビジネスに参入するようになり、ランチ・ワゴンのイメージはあまり良いものではなかった。そのイメージを払しょくするべく、ランチ・ワゴンの内外装の高級化を目指して、経営者たちは使い古した市電を購入し、ランチ・ワゴンに改造をするようになった。ニューヨーク州ニュー・ロシェルNew Rochelleのランチ・ワゴン製造業のパトリック・ターニーPatrick J. Tierneyは列車食堂風の豪華な内外装に改装することにした。女性が利用できるように、ゆったりとしたブース席、換気装置、排気ファン、トイレット等の最新の設備を設置し、その大型ランチ・ワゴンをダイナーDiners、1人で運営する小型のランチ・ワゴンをダイネッツDinettes、と名付けた。ターニーが1917年に亡くなった時には億万長者になっていた。その後、会社は1925年には1日1台のペースでダイナーを製造していた。

1930〜1940年代にはあらゆるもの、冷蔵庫から蒸気機関車まで流線型のデザインのブームが巻き起こり、ダイナーも流線型のデザインを取り入れるようになった。また、きらきらと光るステンレス製の装飾物を内外装に使う豪華なダイナーに変身し、リチャード・ガットマンRichard J.S.Gutmanとエリオット・カーフマンElliott Kaufmanが1979年に執筆した アメリカンダイナー・"American Diner"はこの時代のダイナーをダイナーの黄金時代Golden Age of the Dinerと呼んだ。この時代には全米に6,700のダイナーが毎日100万食を提供していた。1940年代の終わりには13社のダイナー製造会社があり、毎年250台のダイナーを製造していた。1950年代には流線型のダイナーは段々古臭いイメージとなり、ダイナーは大型の窓を備えた宇宙船的な未来型のデザインとなり、規模も大型化するようになった。しかし、1960年〜1970年代のファスト・フードチェーンの台頭に伴い、ダイナーのブームは終わり始めた。しかし、まだ、米国の各地には古いダイナーが名物として経営を続けている。当時のダイナーの存在は食事よりも、そのデザイン、雰囲気を楽しむものだった 。
1800年代の終わりには薬局の片隅で炭酸飲料を造る、ソーダ・ファウンテンという飲料スタンドが出来上がった。炭酸飲料はフィラデルフィアのエリアス・デュランドElias Durandが炭酸飲料を消化不良の治療薬として販売するようになったのが起源だ。(現在でも米国の家庭では炭酸飲料を治療薬として使う。気持ち悪くなったときにはコカコーラを、下痢の時にはスプライトを子供に飲ませる)その後、アトランタの薬剤師のジョー・ペンバートンDr.Johe Styth Pembertonがコーラの実から飲料を造り、ジェイコブス薬局Jacob's Pharmacyで販売し、コカコーラが誕生した。
1874年にアイスクリーム・ソーダが誕生した。起源には2つの説があり、一つはテキサス州のサンアントニオのハニッシュ・アンド・ベアー・アイス・クリーム・パーラーHanisch & Baer Ice Cleam Parlor を経営するヘアー・ハーニッシュHerr Harnischが開発した。もう一つの説は1874年10月のフィラデルフィア・フランクリン・インスティテュートの博覧会でロバート・グリーンRobert M.Greenがアイスクリーム・ソーダを販売し、最高、1日で100ドルの売上を上げたといわれている。1893年のアメリカン・マガジンAmerican Magazineがアイスクリーム・ソーダは国民的飲み物だと宣言したほど、急速に普及していった。

1903年にフィラデルフィアのブロード・ストリートBroad Street薬局が初めて炭酸飲料ディスペンサーをカウンターに設置し、顧客に向かって接客しながら炭酸飲料を製造できるようになった。また、アイスクリーム・コーンは1904年のセントルイス万国博覧会で紹介された。その後、ソーダ・ファウンテンではミルクシェイク、モルト(麦芽入りミルクMalted)、サンデー、フラッペ(かき氷Frappe)、パフェ、フィズ(弱炭酸飲料Fizze)、エッグクリーム、バナナスプリット、等がきらきらしたガラスや大理石を使った豪華な内装の中で販売されるようになった。1908年には75000店舗のソーダ・ファウンテンの店舗が全米に存在した。
1920年代〜1930年代はダイナーの全盛期であったが、ダイナー以外に、コーヒーショップ、カフェ、軽食堂luncheonette、等の軽い食事や飲料を提供する店舗が増加していた。
1904年にマサチューセッツ州スプリングフィールドのハリー・ケルシーHarry S. Kelseyが軽食堂のランチョネットluncheonette、ランチルームlunchroom の営業を開始し、高級ホテルの名前を使い、ウオドルフ・ランチョWadorf Luncho名付け、東海岸に1920年までに74店舗を開店した。軽食堂は第一次世界大戦の後、急増し、ソンプソンズ・シカゴThompson's Chicagoやバルチモアーのデアリー・ランチDairy Lunchは1920年には104店を展開していた。当初は軽食堂の内装は地味であったが清潔感を重視していた。その後、モネル・メタルMonel Metal(銅と錫の合金)を使った内装材などを使用する豪華な内装になっていった。1910年にはパリでネオン照明が開発され、1930年頃には軽食堂の内装にも使われるようになった。軽食堂などではサンドイッチが提供されるようになり、各地の軽食堂で色々なサンドイッチが開発されウエッジWedge,グラインダーGrinder等の名前がつけられた。

4)サンドイッチの開発
1900年代にサンドイッチが各地で開発される。1900年代のニューオリンズにはプッシュPushというサンドイッチがあった。1927年に起業家のクロビスClovisとベニー・マーティンBenny Martinはそのサンドイッチを基に、ポボーイPoBoyというボリュームたっぷりのサンドイッチを造った(現在でも、ニューオリンズ等の南部でポボーイという名前で販売されている)。1910年にはニューオリンズの中心街フレンチクオーターのセントラル・グロサリーCentral Groceryのサルバトーレ・ルパSalvatore Lupaが長い特製のフレンチ・ローフにサラミ、チーズ、ピックルス等を入れたマフレッタMuffulettaを造った。1930年にはフィラデルフィアのパットPat とハリー・オリビエリHarry Olivieri兄弟が辛いソースとイタリアン・ローフにグリルステーキを挟み、辛いソースで味付けしたサンドイッチを造った。1948年にチーズを加えて、フィラデルフィア・チーズ・ステーキPhiladelphia Cheese Steakと命名した。1905年にフロリダ州タンパTampaのコロンビア・カフェColumbia Caf?でキューバン・サンドイッチCuban Sandwichやキューバン・ミックスCuban Mixが造られた。1930年には2枚のライブレッドにコーンビーフ、サワークラフト、スイスチーズ、ロシアンドレッシングを挟んだルーベン・サンドイッチReuben Sandwichが造られた。造ったのはニューヨークのルーベンズ・デリカテッセンReuven's Delicatessen か ネブラスカ州のブラックストン・ホテルBlackstone Hotelのルーベン・クラコフスキーReuben Kulakofskyだといわれている。ホット・ブラウンHot Brown サンドイッチはスライスしたターキーにモーネー・ソースMornay Sauce(チーズを入れたホワイトソース)とスライスベーコンを入れており、ケンタッキー州ルイビルで1930年代にザ・ブラウン・ホテルThe Brown Hotelで造られた。北東部では第2次世界大戦中にコネチカット州のグロトンGrotonの米国海軍基地の軍隊が地元のイタリアン・デリ(イタリア惣菜店)に500のヒーロー・サンドイッチHero Sandowichesを注文し、サブSubというサンドイッチの名前が誕生した。

5)セルフ・サービスの誕生  
1885年9月4日にニューヨークに最初のセルフサービスのカフェテリア、エクスチェンジ・バフェExchange Buffetが開業した。この店舗の主要な客は男性中心で、セルフサービスで料理を購入した後は立食であった。ダイナーの陰で地味な存在のカフェテリアは学校給食や家族の会合などに使われるようになっていた。カフェテリアは地元密着型の健全なレストランだ。特に忙しいビジネスマンが短時間でたっぷりの料理を適正な価格で食べられるので人気が出た。1893年にシカゴで開催された博覧会World's Columbian Expositionで最初の誰でも利用できるセルフサービスのカフェテリアが開店した。経営者のジョン・クルーガーJohn Krugerはスエーデンのカフェテリアスタイルのスモーガスボードをヒントに開店し、カフェテリアと呼んだ。カフェテリアはスペイン語でコーヒーショップの意味だ。その後、数社のカフェテリアがシカゴに開業した。1898年にチャイルドChilds 兄弟がニューヨークのカフェテリアでセルフサービス用のトレーを取り入れた。2年後にはニューヨークのバーナー・マックフェデンBernarr Adolphus Macfaddenはペニー(1セント)レストランを開業した。この店舗は殆どの料理を1セントで提供した。

1902年6月9日に革新的な業態、オートマットAutomatがフィラデルフィアのジョセフ・ホーンJoseph Horn と フランク・ハダートFrank Hardartにより開発され開店した。彼らはカフェテリアの形態にドイツの会社に注文したコイン販売機械を追加した(この機械の特許はドイツの会社が持っていた)。従来の料理が並んで、コックが料理を盛り付けるサービス・カウンターに、小さなガラス張りの窓を設けた数多くの棚を設置し、その中に調理済みのサンドイッチ、パイ、ケーキ、を入れてある。顧客はコインを入れて(ほとんどの価格が5セント)中から料理を取り出す仕組みだ。そして、会社は創業者の2名の名前をとってホーン&ハダートHorn & Hadartと名付けられた。その後、フィラデルフィアで数店舗を開店後、ニューヨークのタイムズスクエアー(ニュヨーク、マンハッタンの中心の繁華街)に1912年7月2日に開店した。店舗は豪華でお洒落な最新のデザインを取り入れた内装であった。1939年にはニューヨークに40軒のオートマットが開店していた。しかし、ニューヨークとフィラデルフィア以外の都市では成功しなかった。シカゴやボストンに進出したがすべて失敗に終わった。そして、オートマット形態の店舗のブームは終わってしまった。また、カフェテリア形態の店舗も1960年代には人気が低下していった。しかし、カフェテリアの形態は南部では大変人気があり、現在でもその頃の店舗が残っている。


以下続く

参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops, Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and Company, Inc. New York

Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America 
Bantam Books

Tennyson Jeffrey(1993) Hamburger Heaven: The Illustrated History of the Hamburger Hyperion Publishers

 


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