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月刊厨房 2011年8月号
米国外食産業の歴史とイノベーション 第六回目


第6章 2代目フォードの時代

初代のフレッドが2代目のフォードに後継者教育を開始したのはフレッドが50歳になる
1885年だった。その後、会社の存亡がかかった危機を乗り越えてフレッドは1901年2月9
日に享年66歳で亡くなるまで後継者育成に務めた。フレッドの死去時にはフォードは35
歳と経験を積んだビジネスマンに成長していた。実際に1895から1896年頃にはすでにフ
ォードは実質的な経営権を振るっていた。会社名をフレッドハーベイと変えなかったため
にフォードの実績は公になっていないが、フレッドハーベイを実質的に成長させたのはフ
ォードであるいえる。先月号に店舗の開店順の表を添付したのを見ていただくと判るが、
1895年以前までにフレッドハーベイのレストランは53軒であるが、1895年以降に残りの
大半を開店しているのがわかる。そのフォードの功績を見てみよう。
 

1)観光開発
 フォードのレストラン、ホテル、ユニオンステーション、等のチェーン展開というビジ
ネス成功の他にもう1つの大きな功績がある。それは観光開発だ。観光開発は初代のフレ
ッドがラスベガスにホテルを開業したのが始まりだ。
その後、フレッドハーベイがレストランとホテルを沿線に展開しているサンタフェ鉄道
は観光に力を入れるようになった。サンタフェ鉄道は東部から西部に移住する人たちを運
ぶことや、西部で取れた農産物や工業製品を東部に運ぶことが主たる仕事であった。しか
し、安定した運賃収益を確保するために、より運賃の高い個人旅行客を確保しようと考え、
沿線のグランドキャニオンの観光地化を考えた。サンタフェ鉄道はすでにフレッドハーベ
イが運営する立派なホテルをグランドキャニオンで最も景観の良い場所に建設をしていた。
 そこで、サンタフェ鉄道はグランドキャニオンの知名度を上げるため1893年にシカ
ゴで開催された万国博覧会に有名な画家トーマス・モランThomas Moranに書かせたグラン
ドキャニオンの大型絵画を出展しようと試みた。書きあがったグランドキャニオンの絵画
は実際には万国博で展示されなかったが、サンタフェ鉄道は6色を使った1000枚以上
のコピーを作成し、サンタフェ鉄道の総ての駅舎内、周辺の学校、地方政府官舎、など人
が集まる場所に掲出して知名度を上げた。
 そして、グランドキャニオンを訪問する機会が増えたフォードはその素晴らしい景観に
心底から惚れ込んでいった。
 
サンタフェ鉄道とフォードが観光開発に力を入れたもう1つはインディアン文化の訴求
であり、米国でも2番目に古い都市であるサンタフェの観光開発を試みた。サンタフェは
インディアンが古くから居住していた都市であり、インディアンとメキシコ文化の混ざっ
た独特の文化を醸し出す町であった。フォードの妹ミニーMinnieはフレッドハーベイ社の
ビジネスに関与を希望していたが、家業を継ぐのは男性であると言う家訓の元に、夫のジ
ョン・ハッケルJohn Huckelにフレッドハーベイ社のビジネスに参画をさせていた。ハッ
ケルはフレッドハーベイ社がサンタフェ鉄道沿いに展開するニューススタンド(新聞や簡
単な食品の販売をする施設)と鉄道駅に展開する小売店の責任者であった。その仕事上サ
ンタフェ鉄道の支社のあるラミーLamyからサンタフェに通う間に、土地のインディアンな
どから民芸品を購入するようになり妻のミニーとともにインディアン文化に興味を持つよ
うになっていった。また、現地のハーベイ・ハウス・ナバホNavajoの従業員のハーマン・
シュワイツアーHerman Schwizerの趣味が馬に乗ってサンタフェ周辺のインディアンと交
流し、インディアンが作った毛布や陶器、宝飾品、などを収集することであった。店舗を
運営するうちに観光客のインディアン製造の民芸品に対する好みが2つに分かれることを
発見した。本格的なインディアン民芸品を好む人、お土産用に安ければよいと言う人。
の2種類だった。自らは本格的なインディアン工芸品を購入する傍ら、お土産用に地元の
インディアン達に手数料を払い、お土産用の安いインディアン工芸品を製造させるように
なった。このシュワイツアーのインディアン文化への知識の深さと、ビジネスのセンスに
気がついたミニー夫妻はシュワイツアーを責任者にしてサンタフェにインディアン文化発
信の拠点を作ることをフォードとサンタフェ鉄道のリプレイ社長に強く進言した。
 
そして、アルバカーキーAlbuquerque駅に隣接したホテルを改造して、本格的なインディ
アン文化の博物館に改装することにした。しかし、インディアン民芸品を大量に集めた二
人であったが、ホテルをどのように装飾すればよいかがわからなかった。
そこで、ミネソタ州セント・ポール市の高校でインダストリアルデザインを教えていた、
33歳のマリーコルターMary Elizabeth Jane Colterを採用し、博物館のディスプレイなどの
運営を担当させることにした。コルターは9歳の頃からインディアン文化に親しみ、サン
フランシスコに引越しをしてからCalifornia School of Designで建築とインテリアデザイン
を学んだ。卒業後、セントポールに戻り高校の先生をしていた。高校では建築とインテリ
アデザインだけでなく、宝石や宝飾品の加工をするようになっていた。コルターは美術に
ついての見識には他の誰にも負けないと言う自信を持っている女性だった。
 フォードやサンタフェ鉄道は効率のよい建築設計や内装には詳しかったが、デザイン的
なセンスにはかけていた。それを補ったのがコルターの知識であり、アルバカーキーのホ
テルの改装を行った。その結果、この博物館建設のプロジェクトは大成功して、観光客が
アルバカーキーに押し寄せるようになった。ハッケルはその成功をみて、さらに、実際の
インディアンを採用し、博物館に隣接した土地にインディアンの集落を作らせ、そこに居
住させ、インディアンの民芸品を作らせ、その光景を観光客が楽しめるようにした。
 
ルーズベルト大統領が就任してから2年後に、カリフォルニア州やグランドキャニオン
を初めて訪問するために、サンタフェ鉄道を利用してカリフォルニアに向かうことになっ
た。(国民に絶大な人気を博していたルーズベルト大統領が大統領の任期の間に、移民が急
増し米国の人口は倍の8000万人に増えていた。)1903年5月5日にルーズベルト大統領は
アルバカーキーに到着した時には、熱狂した5000人の人が待っていた。
 アルバカーキーから専用列車に乗りグランドキャニオンに向かい、グランドキャニオン
駅で白馬に乗り換えグランドキャニオンを見学に向かった。そして、グランドキャニオン
の光景を目の当たりにして感動し、グランドキャニオンの自然を保全する必要を認識した。
このグランドキャニオンの訪問は後に、米国における国定公園制定の法律につながったの
だ。
 ルーズベルト大統領がグランドキャニオンを訪問して感動したことはマスコミにより
大々的に報道され、グランドキャニオンの知名度は一気に高まった。そこで、フォードと
サンタフェ鉄道はグランドキャニオンに立派なホテル、エルタバー El Tovarを建設する
ことにした(このホテルの名前はスペイン時代の征服者から命名された)。フレッドの時代
にラスベガスにMontezumaという立派なホテルを建設していたが、今回はそれよりもさら
に素晴らしいホテルにする意気込みだった。客室数は125部屋もあり、部屋からはグラン
ドキャニオンの素晴らしい光景を眺めることが出来た。水の確保が課題であったが、サン
タフェ鉄道で週に何回も水を運んで、建物内の貯水塔に水をためる工夫など、莫大な経費
がかかった。1905年1月14日に開業したホテルの横にはインディアンのホッピHopi族が
居住し、生活や民芸品を製造する光景を見れるホッピ・ハウスを建築した。
 勿論、このホッピハウスの建築に当たってはコルターが陣頭指揮をとり本格的な建物に
仕上げた。ホテルとホッピハウスの建築費は25万ドル(現在価値で6.3ミリオンドル)か
かった。さらに、ホテル滞在客が馬に乗ってグランドキャニオンを見学できるように牧場
建設するのに5万ドル(現在価値で1.3ミリオンドル)を費やした。巨額な投資であったが、
フォードとサンタフェ鉄道にとっては観光客の獲得に必用な経費にすぎなかった。しかし、
慎重なフォードは従来の収益の半分を得る代わりに、収益を減らして、ホテルの運営経費
を受け取ると言う慎重な経営手法をとることにした。
 
フォードの心配をよそに1911年にはエル・タバーには年間3万人の観光客が宿泊する大
繁盛ホテルとなっていた。
このフォードのグランドキャニオンに対する観光地化の努力は認められるようになり、
後にルーズベルト大統領が国立公園に関する法律National Park Serviceを制定する際に、国
会に喚問され証言をすることになった。この結果、1916年に国立公園法が成立し、グラン
ドキャニオンは国立公園に制定されて、名実とともに観光地となったのだ。
  この頃には西部のあるビジネスマンが、アメリカを最初に見ようSee America Firstと
いうキャンペーンを行うようになった。当時の米国人が観光と言うと出身地で歴史の古い
遺跡の多いヨーロッパを観光訪問することが多かったが、それは年間に米国外に200ミリ
オンドル(現在価値で4.4ビリオンドル)と言う巨額なお金を流出させることになっていた
からだ。
 1914年には第一次世界大戦が開戦され、ヨーロッパに観光旅行に行くことは不可能にな
った(1917年4月には米国も参戦)。また、1915年には米国内で2つの万博が開催された、
1つは大地震からの復興を示すためにサンフランシスコで開催された、パナマ運河完成
を記念したパナマカリフォルニア万国博覧会Pnanama-Califormia International Exposition。
2つ目はサンディエゴで開催された小規模なパナマカリフォルニア博覧会
Pnanama-Califormia International Expositionだった。
 
フレッドはこの2つの博覧会に協力を要請され、サンフランシスコ会場内にはグランド
キャニオンの巨大な模型、サンディエゴには10エーカーの大きさのインディアン集落を
建設し、会期中の1年間に数百人のインディアンを居住させ、実際の生活ぶりや工芸品の
製造を見せることにした。両方の施設建設にはそれぞれ、1年間の建設期間と16万ドル(現
在価値で3.5ミリオンドル)と言う巨費を費やした。
 この結果、サンフランシスコの会場には2000万人の人が訪れ、サンディエゴの会場には
400万人の人が訪れた。特にサンディエゴのインディアン集落は西部の文化に対する人々の
興味を引き起こし、フォードとサンタフェ鉄道の観光振興策とて大成功であった。1916年
には米国の総人口は1億人を超え、国内観光は大きな人気を呼ぶようになった。

2)遺産相続と契約の更改
 1905年はフォードとサンタフェ鉄道にとって最高の年であったが、その裏で鉄道のピー
クは過ぎ去ろうとしていた。鉄道は過去50年間、米国人の生活をドラマチックに変革して
きた。しかし、鉄道のビジネスや文化的な影響力はピークになっていたのだ。その頃には
すでに数千台のガスエンジンの自動車が米国内を走っていたし、ライト兄弟は初飛行に成
功したいたのだった。
 しかし、まだ、鉄道会社はその変化に気がついていず、フレッドハーベイ社とサンタフ
ェ鉄道の10年契約の更改時に近づいていた。フォードを実の子のように可愛がっていたサ
ンタフェ鉄道社長のリプレイは60歳になり、フォードも40才になっていた。鉄道のビジ
ネスは全盛期を迎えていたが、時のルーズベルト大統領は鉄道などの大企業に対する法規
制を厳しくすることを始めていた。ルーズベルトが規制を狙っていたのはニューヨークの
金融機関のJ.P.モーガンJ.P.MorganやロックフェラーRockefellerやバンダービルトVanterbilt,
ハリマンE.H.Harriman,等の巨大な企業であった。
 
1903年には州間通商委員会Interstate Commerce Commissionの権限を強化し、鉄道会社が
公表している運賃を顧客によってディスカウントすることを禁止するようにした。これは
鉄道会社がもっていた強大な経済力をそぎ取り、鉄道会社を支配していた金融機関のJ.P.モ
ーガンやロックフェラーの力を低下させることが目的であった。この経済界への規制の強
化により、まだ弱体な米国連邦政府の力を増そうと考えていたのだった。
 ルーズベルト大統領は1906年にはさらに食品医薬品規制法Pure Food and Drug Actと、ハ
ップバーン法The Hupburn Actを成立させた。食品医薬品規正法は食品と薬品の安全性を向
上させるのが目的であったが、ハップバーン法は州間通商委員会が鉄道会社の運賃や契約
条件を一方的に定めることができると言う強力な規正法であり、鉄道会社の経済的な自由
を厳しく規制するものであった。さらに、この法律は連邦政府が鉄道の終着駅や乗換駅、
速達便、寝台列車、の規制まで含んでおり、フレッドハーベイ社を直接規制する法律に等
しいものであった。
 
さらに、1906年4月18日にサンフランシスコを襲った震度7.9(レクタースケールRichter 
scale)により、サンフランシスコのフェリー乗り場ビル内のフレッドハーベイ社レスト
ランが大被害を受けた。
リプレイの副社長だったポールモートンPaul Mortonがサンタフェ鉄道を退職後、
ルーズベルト政権の大臣に就任し、その後、巨大な金融機関の社長に就任していた。モー
トンは金融の仕事で、全米のホテルやレストランを知っており、いつでもそれらの運営受
託の仕事を有能なフォードにさせてあげると勧誘していた。このチャンスをつかめばフォ
ードは経営多角化に成功するし、場合によってはフレッドハーベイ社の経営権をサンタフ
ェ鉄道に売却すれば巨額の金を得ることも可能であった。
 そのような逆風の吹く環境とフードに対する新しいビジネスの勧誘の中で、1906年夏に、
フォードはサンタフェ鉄道社長のリプレイとの人間関係の深さに賭けて10年契約を更新す
ることに決めた。フォードが継続して運営するのは、レストラン、ホテル、列車食堂、新
聞販売店における小売業、インディアン工芸品などの骨董品の販売業、などであった。グ
ランドキャニオンのホテルなどの運営はもう順調であったが、慎重なフォードは10年の別
途契約とした。
 
この契約の前にフォードとベンジャミンは会社の再構築を行った。鉄道沿いのレストラ
ンを運営する主たる会社フレッドハーベイ社をニュージャージー州に会社登記。セントル
イス・ユニオンス・テーションやシカゴのディアボーン駅などのサンタフェ鉄道沿い以外
の場所でレストランを運営する会社をカンサス・シティ市にハーベイ・ホテル&レストラン
社として設立した。両社の社長にはフォードが就任し、後の人生をその2社の繁栄に向け
努力し、他のビジネスを模索することをやめた。
 フレッドがなくなって10年後の1911年に、会社運営に自信を持ったフォードはやっとフ
レッドの遺産相続の手続きを開始した。この10年の間にフレッドの遺産は倍以上の価値に
膨らんで、少なく見ても2.6ミリオンドル(現在価値で61ミリオンドル)になっていた。
フォードには弟のバイロンの他に3人の妹がおり、遺産は母親が半分、残りを5人で均等
に相続することになった。ハーベイ家の家訓により遺産は均等に相続させるが、会社の株
式は男子だけが相続することになっていた。フォードは新しく設立したフレッドハーベイ
社の株式の分散を慎重に推し進めることにした。そこで母親のサリーや未婚の妹の株式を
買い取り、妹のミニーの場合は夫のハッケルに株を売却させた。また、一部の株を会社に
貢献を果たしたベンジャミンに売却し、ベンジャミンを第2位の株主にし、過去の貢献に
報いた。会社の表向きの株式評価総額は1.5ミリオンドル(現在価値で35ミリオンドル)
であったが、実際にはその3倍の価値があった。
 
第7章 3代目フレッドの挑戦と事故死、フレッドハーベイ社の終焉
1)3代目フレッドの空軍入り
 3代目のフレッド(初代の名前を取った)は乗馬、ボート、自動車、のスピードの速い乗
り物や、ロッククライミングやポロのような危険なスポーツも大好きな冒険好きの若者
で、大学は名門のハーバード大学に学んでいた。第一次世界大戦が始まり1917年4月6日
に米国が参戦した時に、21歳のフレッドはハーバードを中退し、空軍に志願入隊した。
 当時の空軍はまだ陸軍の一部の小さな組織で、米国全土に空軍の空港は2箇所、所有航
空機は僅か225機にすぎず、しかも、それらは戦闘に耐えるようなものではなかった。空
軍には1330人の兵員と48人の士官しかいなかった。6ヶ月のトレーニングの後に少尉に任
命されセントルイスに造られた新しい空軍基地で、新兵のトレーニングに当たることに
なった。
 
フォードは米国の参戦を大いに支持したが、米国の参戦はフォードとサンタフェ鉄道に
大きな負担を与えることになった。戦争の勃発とともに米国政府は米国の鉄道会社を1つ
にして政府管理下に置くことにしたのだ。フォードは政府にどうやって多くの軍人などに、
十分かつ円滑に食事を提供できるかと諮問を受けた。当時のフレッド・ハーベイ社は米国
で最大の食料品購入者であり、最大の食事提供者であったからだ。その結果、フレッドハ
ーベイの運営する列車食堂は、豪華な食事を提供する場から、移動をする軍人や人々に簡
単な食事を大量に提供する場に変わってしまった。
 また、政府はまとめた鉄道網を思いのまま使おうと、従来の鉄道会社の社長を全員解雇
すると言う暴挙にでた。また、政府は穀物などを節約するために、当時の市民運動であっ
た禁酒運動を活用し、1919年に禁酒法を施行した。この戦争と禁酒法のおかげでニューヨ
ークのデルモニコなどの高級レストランは続々と閉店を迫られることになった。そんな政
府の政策によりサンタフェ鉄道のリプレイ社長は退任し、失意の日を送ったまま1920年に
亡くなってしまった。
 そのような社会情勢の中で、1918年9月にフレッドにようやくヨーロッパへの出動命令
が届いた。フレッドの家族は心配した。しかし、第一次世界大戦時の米国兵の死者は2700
人であり、同時期の米国における流感による死者67万5000人より遥かに少ないものであ
った。危険な戦闘に出会うことがなかったフレッドは戦争の終結とともに無事に帰国を果
たした。

2)禁酒法が与えたフレッドハーベイ社への影響と対策
フォードは遺産相続まではフレッド亡き後のフレッドハーベイ社を指揮しているのが
わからないように公式的な活動を控えてきたが、相続後は何の問題もないことがわかり公
式的な活動、チャリティ活動や居住しているカンサス市への貢献をするようになった。
 その活動の一環でカンサス市は巨大なユニオンステーションを建設することになり、フ
ォードはその建物内の全てのレストランや小売店を運営することになった。建物の内外装
のデザインはフレッドハーベイの第10軍団(経営陣)に加わっていたコルターが担当し
た。
 禁酒法の制定はフレッドハーベイ社にあまり大きな影響を与えなかった。それは元々
元々本社を構えるカンサスが州で禁酒を制定していたからだった。禁酒法と異なり、日曜
日に酒の販売と消費を禁止すると言う緩やかな法律であったが、その影響でフレッドハー
ベイ社のレストランの酒類売上はあまり高くなかったからだ。しかし、フォードはその影
響を最小限にしようとユニオンステーションのビジネスを強化することにした。そこで、
1925年にシカゴに出来たユニオンステーションの全てのレストランと小売店を運営する権
利を取得した。館内にはドラッグストアー、飲料スタンド、香水販売店、玩具屋、床屋、
美容室、24時間営業の本屋、カジュアルなお店から豪華なレストランまで8軒のレストラ
ン、などをフレッド・ハーベイ社が運営することになった。サンタフェ鉄道からのビジネ
スに全面的に頼るのではなく、ビジネスの多角化をするためにその後開業する、ダラス、
ロサンゼルス、等の大都市のユニオンステーションの小売店とレストランを運営する交渉
を始めた。

以下続く

参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops,
Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and
Company, Inc. New York

Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now
Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America 
 Bantam Books

 


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