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月刊厨房 2011年7月号
米国外食産業の歴史とイノベーション 第五回目


第5章 後継者育成と危機管理

1)後継者育成 
 Fredのレストランビジネスは大成功して、レストランの利益は年間で5万ドル(現在価値
で1.1ミリオンドル)にのぼるようになった。利益は税引き後であり、全て現金収入であっ
た。しかもホテルやレストランの不動産は鉄道会社が投資するという好条件だった。その
収益は牧場経営に殆どを投資していった。彼のXY牧場は購入時の倍の規模、牛2万頭、
馬数千頭、そして肥沃な広大な牧場を持っていた。サンタフェ鉄道の重役たちにも投資
をさせていたが、彼らは鉄道の仕事で忙しいので、全ての投資分を買い取ることにし、そ
れぞれに5万ドル(現在価値で1.1ミリオンドル)を支払うことにした。彼らが5年前に投
資した金額の12倍となったのだ。そして、さらに広大な土地をコロラドに求め、牧場を移
転した。
 
しかし、1885年に50歳になるフレッドは腸チフスの後遺症と過酷な旅によるノイローゼ
にだんだん体力を消耗するようになり、後継者育成を真剣に考えるようになった。フレッ
ドには男の子供が2人おり、長男がフォード、次男がバイロンであった。その他に3女が
いたが、フレッドは後継者は男のみで、女性はビジネスに関与しないように決めた。長男
のフォードはフレッドがまだ貧しく、苦労していた時代を知っているので、フォードを後
継者と定め教育を行った。フォードは大学で学ばせたが、フレッドは自分の体力の限界を
悟り、早めの後継者教育をすることにした。そこで、大学を中退させ、自宅に一緒に住ま
わせ英才教育を徹底することにした。また、フォードよりも年齢が7歳上のベンジャミン
にフォードに対する教育のフォローアップをさせることにした。フレッドは体調を回復さ
せるために晩年は出身地の英国ロンドンに長期間帰郷することが多かったからである。
 バイロンは東部のハーバード大学を出たが、苦労を知らないで育ったし、フレッドのよ
うなレストランの運営に向いているタイプではなかった。例えば、ロックフォールチーズ
を試食して腐っているといって破棄するようなセンスの持ち主だった。そこで、フレッド
はバイロンを列車食堂の責任者としてシカゴの常駐させ、フレッド・ハーベイの経営には
直接関与させないようにした。
 実務的な仕事のサポートとしてはベンジャミンが担当したが、父親のフレッドがいない
フォードには精神的なサポートが必要である。そこで、古くからの友人のバイロン・シャ
ーマーホーンにそのメンターとして役割を依頼した。
 
2)危機管理
<1>最初の危機
 フレッドのレストランはサンタフェ鉄道と表裏一体のものだ。当初のフレッドと鉄道と
の契約は信頼だけであり、書いた契約書は存在しなかった。フレッドと鉄道社長のストロ
ングの強い信頼関係で成立していた。ストロングは積極的な経営者で自社を米国一の鉄道
会社にするべく、東部の鉄道会社の拠点であるシカゴまで路線を延長し、カリフォルニア
からシカゴまでの直通便を可能にし、さらには東部までの鉄道運営と言う野望をいだいた。
しかし、不運なことに当時の政府は鉄道各社が設定していた運賃をコントロールするこ
とにした。当時の鉄道会社は採算の良い地域の運賃の利益を留保し、収益の悪い路線をカ
バーしていたが、それを政府は禁止するようになった。その結果、各鉄道会社は運賃の値
下げを開始した。家畜の搬コストは一晩で半額になると言う極端な事例も出てきた。1989
年には複数の鉄道会社の投資家であったJay Gouldの次の買収対象になってしまった。そし
て、数億ドルの借り入れが必要な状況に陥った。
 
その結果、契約書を交わしていないで13年間継続していたフレッドのビジネスは大変危
険な状態に陥った。しかし、退任する直前の1889年5月1日にストロングとフレッドは初
めてレストラン運営委託の契約書を交わし、有効期限5年と設定し、さらに、最近フレッ
ドが投資したレストラン経営資金10万ドル(現在価格で2.4ミリオンドル)を現金で支払って
もらうことで、その危機を乗り越えられた。
 ストロング退任後、後任としてセンとポールミネアポリス&マニトバ鉄道(St. Poul、
Minneapolis & Manitoba Railroad)出身のアレン・マンベルAllen Manvelが就任した。マン
ベルはサンタフェ鉄道の運営にはフレッドは不必要だとして、密かにフレッドの排除を開
始した。最初はプルマンが製造し、フレッドが運営していた豪華な食堂車からフレッドの
排除を開始した。そして、自社で食堂車を建設し自社で運営を開始すると発表した。狙い
は、食堂車の運営を通して、乗客が駅のフレッドのレストランで食事をする時間をなくし、
廃業に追い込もうと言うものだった。
 それに怒ったフレッドは地元の弁護士ウイリアムフックWilliam Hookに相談し、シカゴ
の有名な弁護士ジョージワイントン・クレツインゲGeorg Washington Kretzingeに訴訟を依
頼した。クレツインゲは他の鉄道会社の訴訟で最高裁判所まで争った経験を持ったベテラ
ン弁護士であった。
 
その当時フレッドは療養のためにロンドンに滞在しており、日常の業務は2代目のフォ
ードとそれを補佐するベンジャミンに任されていた。その当時フレッドは5州にまたがり、
24の町で、レストランやホテルを運営していた。その他、従来の牧場に加え2番目の牧
場を取得していた。従業員総数は400人にのぼり、年間の総給料は25万ドル(現在価値で
6.1ミリオンドル)、1日に供給する食数は5000食であった。フレッドがこの訴訟で敗北す
ると失う富は巨大なものとなるのは明らかだった。
 フレッドはシカゴの政治家や有力者などが西部に旅をするときにレストランやホテルの
食事を提供するなどして、強い人間関係を築き上げていた。また、裁判官達もフレッドを
良く知っており、フレッドに同情的であった。当時のサンタフェ鉄道は米国で最大規模(世
界でも)であり、年間の利益は25ミリオンドル(現在価値で610ミリオンドル)、総株価は
200ミリオンドル(現在価値4900ミリオンドル)の大企業であった。しかし、訴訟の結果
はフレッドの圧倒的な勝利であり、サンタフェ鉄道は食堂車の運営によりフレッドのレス
トランに影響を与えることは出来なくな、面目丸つぶれの判決であった。
数年後の、1893年は後の1929年の大恐慌に比べあまり記憶に残っていないが、大恐
慌に匹敵する影響があった。1892年10月に年に米国大鉄道網の持ち株会社のJay Gould
が56歳の若さで死去し、経済界に影響が出だした。それにより、フィラデルフィア&レン
ディング鉄道鉄道Philadelphia &Rending Railroad が2月に倒産し、他の鉄道会社の経営
危機も表面化しだした。そのような混乱の中で、サンタ・フェ鉄道の社長でフレッドと敵
対していたマンベルは55歳の若さで病死してしまった。そして、1893年クリスマスにサン
タ・フェ鉄道は倒産してしまった。同年にはその他多数の鉄道会社が倒産をしていた。
 
しかし、フレッドにとってストロングと契約した5年のレストラン運営受託契約が切れ
るのは1894年の半ばであり、敵対していたマンベルの死去と鉄道の破産は良いことであっ
た。その結果、経営再建しようというサンタフェ鉄道は鉄道網の再建にフレッドのレスト
ランとホテルの素晴らしい運営は必要であると再認識し、フレッドとの関係の修復を始め
た。 
1895年夏にロンドンで療養中のフレッドを経営再建中のサンタフェ鉄道のゼネラルマネ
ージャーであったフェリーJ.J.Freyが訪問し、フレッドと交渉をした。サンタフェ鉄道は列
車食堂車を運営開始したが、大きな赤字を出していたから、再度、フレッドに列車食堂の
運営も依頼に来たのだ。そこで、フレッドは列車食堂を運営受託する条件として、一食に
つき、25セント(現在価値6.61ドル)をフレッドが受け取ることを条件に受託した。当時の
一食の料金は75セント(現在価値19.84ドル)であったから、破格の条件と言える。これによ
り過去7年間継続したフレッドとサンタフェ鉄道の争いは終結した。
 1896年1月24日にフォードとジュディは2人目の子供、長男で3代目を継ぐフレデリッ
ク・ヘンリー・ハーベイFrederick Henry Harveyを授かった。 
 
そして同時期に経営不振に陥っていたサンタフェ鉄道にエドワード・パイソンリプレイ
Edward Payson Ripleyが社長として就任した。フレッドとリプレイはシカゴバーリントン、
&クインシー鉄道Chicago,B urlington & Quincy Railwayで乗車券の販売業務で一緒に仕
事を経験して依頼の友人であり、後に、シカゴで開催された万博の委員会でも席を並べた
経験がある。
 友人でありながら、リプレイは公平な立場で、取締役会でフレッドのレストラン部門を
どうするのか会社に提案した。フレッドのレストラン部門を鉄道会社が自営で経営すれば
莫大な利益が出ることが明らかだったからだ。しかし、取締役会は自社による多大な投資
に積極的でなく、結果として、フレッドを継続して使うことになった。従来どおり家賃、
水道光熱費、輸送運賃、従業員の運賃は無料で、店舗の投資も鉄道会社が負担するが、そ
の代わりに店舗の利益は鉄道会社とフレッドが折半する条件とした。その代わりにフレッ
ドは各駅の新聞スタンドや小売店、列車内販売を独占的に受託することになった。これら
の店舗はシカゴからロスアンゼルスまでの路線上に点在しその全てをフレッドが運営する
ことになった。また、セントルイスやシカゴなどの大都市に鉄道網をつなぐユニオンステ
ーションUnion Station と言うターミナル駅を作るようになった。今で言うターミナルの駅
ビルのような大規模なものであった。そのターミナル駅には小売業や大規模なレストラン、
本屋を構えていた。そこで、フレッドはそれらの店舗を経営する権利を取得した。その結
果、米国でレストラン、ホテル、新聞販売所、だけではなく、本屋、小売業のチェーン化
を初めて行った企業となったのだ。

この時期にはフレッドの病状は悪化しており、英国ロンドンに滞在することが多かった。
フレッドはフォードに対して毎日手紙や電報で仕事の指示をしており、このリプレイとの
交渉でも自ら陣頭指揮をしようとしたが、友人でもあるリプレイは息子のフォードに安心
してビジネスの交渉をさせるようにして、フォードの自立を助けた。
 1996年には仕事に自信を持ち始めたリプレイはロサンゼルスからカリフォルニアまでの
鉄道網を延長することにした。当然、それらの沿線上にはハーベイハウスが店舗を構える
こととなるのだ。さらにリプレイは鉄道網を利用する顧客に旅行の素晴らしい経験を味わ
って貰うように沿線上に素晴らしいホテルチェーンを建設することを進めた。当然、その
運営はハーベイハウスが担当することになるのだ。

<2>2番目の危機 フレッド・ハーベイ の死去
 1899年10月に体調の優れないフレッドはロンドンで高名な医師の診断を受け、結腸癌で
あることが判明し、手術を受けることにした。その事実は新聞に大々的に報道された。依
頼したのは高名な医師であるが、当時の手術の成功率は低く術後半分の人はなくなるよう
状態であった。傷口の消毒薬も十分でないし、抗生物質のない時代には手術は大変危険な
賭けであったのだ。
 奇跡的に手術に成功したフレッドは米国の自宅に1900年5月28日に戻り、相続対策を
開始した。相続税のかからないように各子供たちに一人5万ドル(現在価値1.32ミリオンド
ル)を贈与することにした。その贈与は現金だけでなく、所有する他企業の株式、貸付金の
証書、証券、などを含んでいた。
 それらの準備を粛々と行い、1901年2月9日にフレッドは亡くなった。当時の新聞にフ
レッドの遺産が話題になり、1.2ミリオンドル(現在価値で31.3ミリオンドル)と報道された。
実際にはそれよりも巨額で、他に生命保険だけで35000ドル(現在価値914,515ドル)あっ
た。フレッドの遺産相続を実行する責任者のフォードとベンジャミンは相続を数年間禁止
した。
 息子が経営に関与するようになると、米国の企業では企業の名前をフレッド・ハーベイ
からフレッドハーベイ&サンFred Harvey & Sonにするのが通常であるが、フレッドは後継
者問題が外部に出るのを嫌がり、会社の名前は従来どおり維持し、フレッド・ハーベイが
あたかも引き続き陣頭指揮をして顧客へのサービスに当たっているのだと言う印象をあた
えるようにしていた。そして、フォードはフレッドの死去後も会社の名前を変えずにフッ
ド・ハーベイのままでいることにした。

3)後継者フォードの経営手法
 フレッドのあとを継いだフォードの経営手法はフレッドと異なるものであった。フレッ
ドはその厳しい基準を部下にストレートにぶつけるものであり、店舗を視察に無予告でチ
ェックに行き、テーブルセッテイングが少しでも異なっていれば、テーブル毎壊してしま
い、その場で従業員や店長、調理長を解雇するというような過激なものであり、その神経
質な風貌もあいまって鬼のように怖がられていた。しかし、フォードは物腰が柔らかく、
部下の話を良く聞き、権限を委譲する経営方針を取り入れた。その経営方針の1つが集団
経営方式だった。
それが第10師団 The Tenth Legion(第10軍団 ローマのシーザーが率いた最強の軍団
で、親衛隊である)だ。自ら採用して教育した信頼のできる部下を各店舗の経営管理に当
たらせるようにしたのだ。彼らはあたかも軍服や鎧のように同じグレーのスーツを着こな
して、本社で毎日集まって定期的な会議を開き、フォードとベンジャミンとともに店舗に
おける大小の問題を全てディスカッションしていた。政府の列車停車場に対する法規制の
強化から、妊娠したハーベイガールの話題まで幅広く情報を共有していた。
 数セントの食材コストの上昇であっても、年間数百万食を提供する同社にとっては巨額
がコスト上昇となるのであった。当時のフレッドハーベイ社の年間の購入食材の量を見て
みよう。卵6,480,000個、バター300,000ポンド、砂糖1,000,000ポンド、牛肉2,000,000ポ
ンド、鳥600,000ポンド、ハムは500,000ポンド、ベーコン100,000ポンド、ラード150,000
ポンド、七面鳥100,000ポンド、アヒル60,000ポンド、小麦粉3,000,000ポンド、ポテト
2,800,000ポンド、コーヒー300,000ポンド、を年間に使用している。
 また、価格だけではなく品質も重視していた。良い食材を見つけた社員は会議で提案し、
全員でその品質を確認し、良ければ採用するようにして品質向上に努めた。
 この頃には社員の総数は7000人を超えるようになっていた。初代のフレッドは自らの行
動であるべき姿を社員に示していたが、フォードは社員への手紙やニュースレター、スピ
ーチなどで柔らかく行動指針を示すようにしていた。
 そしてフォードは社員の行動指針を以下のように策定した。

1. 安物買いをするな。
もし最高の品質の食材を得たら、顧客は最高の料理を味わうことができる。

2. 公平な買い物は最高の商品を得ることができる。
自分の強い立場を使って値切ることは結果的に売り手の感情を害して、悪い商品を得
ることがある。

3. 1度に1つの課題に専念してその課題を解決する。
ビジネスにおける取引先との人間関係を大事にして、継続するようにする。色々な取
引先と交渉するのは相手の信頼を失う恐れがある。  
4. 相手に信頼させるには、まず、相手を信頼することが大事だ。
5. 正しい仕事をすれば利益は付いてくる。
わが社の成長は適正な利益が原動力である。我々はいつも顧客の利益を考えて行動し
ているが、時として顧客の利益に添わないときがある。もし、適正な利益率を超えて
いる場合は、誰かが利益を出すために原材料費を削っているのであり、それは将来顧
客の不評を買い、最終的には売上を低下することとなる。
6. 顧客満足度を最大限に保つように努力を続けなさい
我々は1店舗の創業時から顧客満足を最大限に保つようにしている。どんなに困難な
状況におかれても、その理念を絶対に失ってはいけない。
7.「顧客満足度を最高に維持する」と言う企業理念を常に保ってほしい。
  時として社長の私が短期的な利益を考えて、取引業者に安いランクの低い牛肉を入れ
てくれと言うことがあるかもしれない。しかし、業者は私の依頼を無視して最高の牛
肉を引き続き納入してくれることを願う。同じことは社員にも言える。社長が無理難
題を言ってもそれに従うのではなく、各社員が顧客満足度を保つために何が必要かを
考えて行動してほしい。社長が世迷言を言ってもいつかは元に戻るからだ。
8.経験のない従業員を採用する。
社員には他のレストランやホテルでの経験がないか、浅い、新鮮な感覚を持った人を
雇う。他の企業で誤った教育やトレーニングを受けていない従業員のほうが正しい仕
事を教えやすいからだ。
9. 社内から昇進させる
有能な外部からの人材を採用することはしない。常に部下の仕事振りを把握し、優秀
な人材を社内から抜擢することにより彼らのやる気を最大限に保つことが出来るのだ。

10.会社はゆっくりと確実に成長させる
  そうすれば能力のある従業員が車内で育ち、出世をすることが可能になるのだ。もし、
会社の成長が遅すぎれば能力のある従業員は、成長のチャンスを求めて会社を去って
しまうだろう。
11.変わり者は大歓迎だ。
  クレームを言う気難しい顧客は会社にとって大変重要だ。難しいクレームに対処する
ために根本的に仕事を見直し、顧客を満足させることは、顧客満足をさらに高められ
るチャンスであるとして、難しい変わり者の顧客に接しなさい。
12.失敗したことで自分を責めすぎてはいけない。
 ではフレッドハーベイの成長がどのようになっていたのか、別表の開店と閉店の記録を
見てみよう。(Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America Bantam Books のP429
−432 にある 1875年から1948年までの出店と退店記録 を元に開店日別に並べ替えた)  
何せ古い記録を当たったので、開店日や閉店日、営業形態が不明なものもある。

表には最初に州と町の名前、鉄道名がわかるようになっている。
鉄道名の場合には
無印が、Santa Fe Railway
* が St. Louis & SanFrancisco Railway
# が Kansas Pacific Railroad 
a が Southern Pacific Railroad
を意味する

その次の開店年と閉店年の欄に営業中とあるのは、歴史的記念建造物として経営している
場合である。

その右のランチ、ディナー、新聞スタンド、ホテル、とあるのは営業形態の種類を表して
いる。新聞スタンドは新聞だけでなく、果物やスナックなどの軽食も駅構内でカートなど
を押して列車乗客に販売した形態である。

建物の欄に建物現存とあるのはオリジナルの建物が現存し、建物再建とあるのは修理復元
して記念的な建物として保存してあるものを意味する。

その他の欄にあるのは乳製品農場やカミサリー(セントラルキッチンと異なり、食材の集中
加工を行う専用工場)、ユニオンステーション(大規模な乗換駅で大型の商業施設を設置し
ており、現在も使われている場合もある)

これを見ると
ランチ営業で95カ所
ディナー営業で91ヵ所
ホテル営業で29ヵ所
もあることがわかる。

                   続く

以下続く

参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops,
Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and
Company, Inc. New York

Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now
Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America 
 Bantam Books

 


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