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月刊厨房 2011年5月号
米国外食産業の歴史とイノベーション 第三回目


第三章 フレッドハーベイが鉄道線路沿いにレストランをいよいよ開業

町に溶け込んで生活していたフレッドであったが、将来はこの町を去らなければいけないという悲観的な展望を持っていた。それは、リーベンワース市が隣町セントルイス市の次の乗り継ぎ地になるという展望がなくなりそうであったからだ。セントルイスまでは東部から鉄道網がつながっていた。将来西部への大陸横断鉄道を施設するにはリーベンワース市とセントルイス市の間にあるミシシッピー川に鉄橋をかけなければならないが、当時の各地でその鉄橋をどこにかけるかで争っていた。それぞれの地区の政治家が暗躍し、現在のカンサス市近くの川沿いに鉄橋がかかることがきまり、その結果リーベンワース市には鉄道が来ないことになってしまったからだ。
 しかし、ユニオンパシフィックUnion Pacific鉄道が支線をリーベンワース市からセントルイス市に施設することによって、リーベンワース市が鉄道網により東部と西部とつながることになった。それをチャンスと見たフレッドは鉄道チケット販売の会社の名前を中央鉄道乗車券販売会社Central Railroad Ticket Officeと改名し、大々的に鉄道チケットの販売にのりだし、会社業績拡大のために若い従業員を雇い訓練を開始した。そのために、鉄道会社のジョイシステムJoy Systemと交渉し、鉄道網の全地域のチケット販売権を取得し、東部の顧客には西部へのチケット、西部の顧客には東部へのチケットの販売を開始した。新聞社リーベンワースコンサーバティブには鉄道網のある場所全域への新聞広告を販売すると告げた。
 
1868年には新聞社リーベンワースコンサーバティブはフレッドに年間の販売手数料の前払いとして3000ドル(現在価格47000ドル)を提供すると申し出た。しかし、ビジネス上の交渉力を身につけたフレッドは一社の新聞社だけではなく、競合しない地区の新聞社、セントジョセフヘラルドカンサス・ファーマーSt.Joseph Herald,Kansas Farmer,他、幾つもの新聞社の広告と新聞も販売する仕組みを作り上げた。
 フレッドは鉄道チケットや定期船チケット販売でも同様に複数の企業との連携ができる仕組みを構築した。ミズーリー川パケットラインMissouri River Packet Lineの月間手数料は40ドル(現在価値625ドル)に過ぎなかったが、複数の企業との手数料を考えると十分な総額になった。
 稼いだ金を元に、ビジネスの他にフレッドは土地や個人的金融などの投資をしていた。そのひとつにカンサス州エルスワースEllsworthにあるアメリカンハウスAmerican Houseというレストランがあった。エルスワースには南北戦争後にワイルドウエストWild Westという西部劇ショーを始めて有名になったビル・ヒコックBill Hickokが住んでいた。
フレッドはそのレストランを不動産価格がピーク時に売却し投資金額+金利で4,485.22ドル(現在価値70100ドル)を受け取った。
フレッドはエネルギッシュに働いていたが、昔患った腸チフスの後遺症、内臓の痛みと偏頭痛、神経痛、精神的な落ち込み、不眠症、に悩まされていた。鉄道網を使って何日もかけて仕事にいくことが多かったが、出張先で寝床に伏せなければならないこともしばしばだった。当時発売された色々な治療薬を試したが効果はなかった。当時の彼の症状は現代では神経衰弱になるであろう。

そのような忙しい生活の中、フレッドは3歳の息子フォードが消化器系の病気(場合によっては腸チフスになる可能性があったが、回復した)になるという事件、2番目の長女ミニーMinnieの誕生、家族の増加によって4ベッドルームの家の購入、など数年間の私生活が過ぎていた。
 フレッドのビジネスは順調で、ジョイシステム社傘下のより大きな鉄道会社バーリントンBurlingtonで中西部鉄道チケット総販売店の責任を任されるようになった。そして、新聞やチケットの販売の地域を西部に専念することにした。フレッドは西部の農場主、牧場主、鉱山経営者、製造業者、などの大量に輸送が必要な顧客の開拓を行った。牧草、トウモロコシ、小麦、キビやアワなどの雑穀、ジャガイモ、生きた鶏、豚、家畜、羊、食肉(屠殺仕立て、熟成中)、羊毛、動物の皮、銅などの鉱石、塩、石油、石炭、小売、火薬、町を作れる量の木材、など、一度の輸送で50台から60台の貨物列車が必要な大量輸送を請け負った。中には野牛の骨という変わったものもあった。当時の政府は野牛を抹殺すれば乱暴なインディアンも少なくなるだろうと、野牛のハンティングを奨励していたからだ。野牛の骨は1トン当たり、6から8ドルもの価格で取引していた。当時の東部は金融取引で成長していたが、フレッドは農産物や鉱物などの確実なビジネスに専念していた。そして、ビジネスを通じて取引先や、競合相手、宿泊先のホテルの従業員、などあらゆる人と交流を深め、地域のビジネス情報を手に入れていた。
 
フレッドが一番親しくしていたのは、シカゴに住んでいるキャプテンバイロン・シャーマーホーンCaptain Byron Schermerhorn、通称キャプテンCaptainだった。フレッドと正反対の性格と風貌だった。大げさで自己本位の性格で、要望はまん丸な顔に悪戯好きな目をしており、フレッドのほっそりとした英国風の身なりとは大きく異なっていた。キャプテンはニューヨークの上流階級の生まれで南北戦争の際に北軍兵として従軍し、南軍の有名なリー将軍などとも戦った。戦後、シカゴに住み速達郵便のビジネスで成功していた。彼はフレッドにとってフレッドを大笑いさせる少ない気を許せる友人だった。
 鉄道網はどんどん拡大し、フレッドのビジネスの展望はますます明るいものになっていった。1869年春にはユニオンパシフィック鉄道は米国で初めて大陸間横断鉄道を完成させた。ネブラスカ州オマハOmahaからカリフォルニア州の首都サクラメントSacramentの間、1700マイル(2720Km)をつないだのだ。これで資材や人を大陸の端から端まで運送できるのだ。
しかし、正確には大陸間横断鉄道ではなかった。それはミズーリー川を渡る鉄橋の工事が終わっていなかったからだ。その当時は夏には川をフェリーで渡り、川が凍結する冬には車などで、時には臨時の鉄道を氷の上に敷いて通行した。
 ユニオン・パシフィック鉄道のオマハの鉄橋が出来上がったのが1872年だった。同時期にはカンサスシティのハンニバルHannibal鉄橋も完成し、交通の便が格段によくなった。
 南北戦争当時のリンカーン大統領は戦争中に戦後の経済復興を考え、大陸間横断鉄道網の建設促進を考え法定化をしていた。そのため、南北戦争終結後に大陸間横断鉄道網の促進が進んでいった。そして、乱立していた鉄道会社同士の合併が始まった。その鉄道網の充実に従い、大型化した鉄道会社の株価は急上昇していった。
 しかし、1872年の秋には新聞が鉄道会社大企業のスキャンダルを報道するようになっていた。その内容は「ユニオン・パシフィック鉄道の重役が鉄道網建設の際にクレジット・モバイラーCredit Mobilierという外国企業風会社を通して、入札をしないで工事建設業者や資材購入を決めていた。そして、政府の鉄道建設資金援助法案を推進していた国会議員が、クレジット・モバイラー社の株を安価に購入していた。」ということだった。この事件は刑事事件にならなかったが、当時の米国鉄道会社に大規模な投資をしていたヨーロッパの投資会社を驚かせ、投資を引き上げさせるには十分であった。
 
その影響はフィラデルフィアの投資家ジェイ・クークJay Cookeが大きく受けるようになった。Cookeは南北戦争当時リンカーン大統領側につき、戦争債を発行し資金面で助けた。戦後は鉄道網の投資を保証する重要な投資家となった。クークの野望は自らの大陸間横断鉄道網の施設であった。そこで、政府に新線建設のために300ミリオンドル(現在価格で5.6ビリオンドル、約45兆円)を援助させる法案の成立をもくろんだ。しかし、ライバルのJPモーガンJ.P.Morganがその企てを妨害した。そのような状況を見てヨーロッパの投資家の投資に対する不安感が高まっていった。その結果、ジェイ・クークの投資会社は1873年9月18日に破産を宣告された。これが世界的な大恐慌ブラックフライデーBlack Fridayを引き起こし、ニューヨークの証券取引所は歴史上初めて10日間閉鎖を迫られた。その結果、大恐慌により多くの企業は倒産を余儀なくさせられた。鉄道会社の株価は60%も低下し、半分以上の鉄道会社は破産してしまった。
フレッドを雇っていたジョイシステムも破産したが、幸運なことにシカゴバーリントン&クインシーChicago、Burlington & Quincy鉄道は無事で、フレッドは取引を継続することができた。
 鉄道会社は困難な状況に陥っていたが、フレッドのいる中西部は金融に依存せず、農業が中心であったので、東部ほど深刻な経済状況にはなかった。そのため、本拠地のレーベンワースは通常と変わらない生活であり、フレッド一家は家族人数を増加させていた。1873年12月には次女を授かった。
 しかし、その平穏な生活を一変させたのが、1874年7月に発生したバッタの大発生だった。バッタは嵐のように襲い、畑の農産物はおろか、羊の毛、人々の洋服、紙などを食べつくしていった。しかし、その不幸を1875年には回復していた。
 
そんな環境の中で、フレッドは40才なりある程度の成功を収めていたが、もっと大きな夢を抱いてた。その当時、彼が壁に貼り何時も目を通していたのが新聞から切り取った「Maxims for Business Men(成功するビジネスマンの心得)」だった。
お金の取引の際には必ず領収書をもらい、発行した領収書のコピーを保存する。
訪問してビジネスの取引をする際には短い時間に端的に用件を話し、決して長居をしてはいけない。時間を無駄に使わない。
法律とは依頼人を守るのではなく、弁護士を儲けさせるものだ。
(法律は弁護士に生牡蠣の身を食べさせ、依頼人はその出し殻をもらうだけだ)
注意深さは安全をもたらす。
お金の授受には細心の注意が必要だ。
1ドルのお金の価値を知りたければ、借りてみることだ。(借りるのはいかに大変かわかる)
努力をしなければ成功はありえない
失敗したことを悔やんで無駄な時間を使わない(失敗したことを悔やんでも失った金は戻ってこないし、時間の無駄だ。)
無駄なく仕事をして、細かいお金にも注意をする。大きな船も小さな穴ひとつで沈んでしまう。
チャンスを注意深く、待ち受けることが大成功につながる。
ウエッブスターの大辞典も1つの単語を積み上げてできている(ローマは一日にして成らず。大事業は簡単に出来上がったのではない)
友達には親切にして、敵には何もするな。
従業員と恋愛関係になるな(部下や従業員と恋愛関係になると、あとで、困ることになる。)
くだらない話をしている人の前では沈黙を守ること。
くだらない話をしている人には、話を続けさせ後で困るようにする。
ヨーロッパの大富豪、ロスチャイルド家の成功の源は以下の3つだ
  不運な人とは付き合わないこと
  細心の注意を払いながら、大胆に行動しろ
  取引は1回終わってから、次の取引をしろ(取引は注意深く行う)

そのころ、鉄道業界に大きな影響を与えていたのが、フレッドより数年年長のジョージ・モーティマープルマンGeorg Mortimer Pullmanだった。彼はニューヨーク州のアルビオンAlbionで育ち、父親の家具製造業や建築業を手伝うようになった。父親の仕事の中心は家を移動させるものであった。後に、シカゴに移住し、1850年代にミシガ湖沿岸の地盤の弱い土地にたつビルディングが地盤沈下で困っているときに、ビルを持ち上げ基礎を打ち直したり、ビルそのものを地盤の固い場所への移動という大きな仕事をするようになった。1859年3月には28歳のプルマンが指揮を執り、ザマターソン・ハウスThe Matteson Houseホテル80×90フィート四方(24×27m)の巨大なホテルを上げて基礎を打ち直す仕事をした。800台のスクリュージャッキを建物の下に置き、800人の職人にそれを操作させ、プルマンの掛け声とともに、10日間を費やし1/4回転ずつ回転させ建物を地上5フィート(1.5m)まで揚げた。その実績でシカゴ中のビルの基礎改善を請け負うようになり、最大の建物では900坪もあるトレモントホテルTremont Hotelの仕事も請け負った。
 その仕事の傍ら、新しいビジネスへの挑戦を考えていた。それは彼がニューヨークからシカゴに行く途中の寝台列車のひどい経験からだった。 当時の運賃は1ドル(現在価値26.98ドル)であった。寝台列車のベッドはまるで金属でできた棺桶のようなひどい乗り心地であり、ベッドは3段重ねで息苦しかった。換気の悪い寝台車の暖房は石炭ストーブで空気が悪く死にそうな苦しさだった。その寝台車の中で、改良をしようと考えていた。 
 後に、シカゴの鉄道会社アルトン&セントルイス鉄道Alton & St.Louis Railroad の重役と知り合いになり、その鉄道会社の古い寝台車を元に、1959年に改造した寝台列車を公開した。それはベッドを使わないときには天井まで折りたたむことを可能にした構造だった。その後、数年間かけて色々な改良を加えた。(途中プルマンはコロラドの金鉱掘りに熱中したが)南北戦争終結時には最新の寝台列車を完成させた。従来の列車よりも長く背が高かった。内外装は豪華で、まるでビクトリア王朝時代の家を再現しているようで、衝撃吸収性のあるサスペンションを備えていた。内装に使われている木は磨き上げ、ニスを丁寧にかけて、ぴかぴかに輝いている。車内にはシャンデリア、バスルームには大理石のテーブル、床には豪華なカーペット、と言うすばらしい仕様だった。ベッドは使わない日中には客席や荷物置き場になり、土煙やゴミを除去するフィルターを備えた換気装置を設置し、外気の新鮮な空気を取り入れるようにした。
このプルマンの寝台列車は話題になり、大成功を収め1867年に会社を設立した。その頃には彼は50台近くの寝台列車を製造し、さらには最初の居間とフルサービスの厨房を備えたホテル列車を作っていた。
 
しかし、プルマンには解決できないことがあった。それが美味しい料理を提供すると言うサービスだった。その当時の列車のサービスはひどいものだった。鉄道会社は鉄道の運営とメインテナンスには長けていたが、こと、サービスとなるとだめだった。列車の乗務員にとって、料理をサービスすることは不可能だったのだ。
 そこで、プルマンは自社で製造した食堂車を鉄道列車に連結し、顧客から利用料金を徴収して、食事のサービスを提供することにした。サービスを担当するのは黒人に限定した。黒人でももっとも色の黒い人間を採用した。
 このビジネスは大成功し、後に、経済界の大物アンドリューカーネギーAndrew Carnegie(鉄鋼業で大成功した富豪)と提携し、投資をしてもらうだけでなく、他の鉄道会社へのビジネスを紹介してもらった。そして、東海岸の大鉄道会社ペンシルバニア鉄道Pennsylvania Railroadや大陸間横断鉄道のユニオンパシフィックUnion Pacific、と提携した。その結果、1870年にはプルマン名前は快適な旅を意味するものとなっていた。
プルマン博物館
http://www.pullman-museum.org/
当時の米国鉄道状況
http://www.usrail.jp/pt-2pullman.htm#no1

 プルマンは列車食堂のデルモニコと呼ばれるようになり、料理人もデルモニコ出身者を使っていたが、寝台車ほどの成功を収めることができなかった。それは、当時の列車は動いている間は、列車間の移動ができない構造だったからだ。この構造は移動距離の短い東部では問題なかったが、大陸間横断列車のように長距離を走ると問題となっていった。
 長距離の乗客は列車食堂ではなく、旅行途中の駅に備えたレストランを利用しなくてはならなかった。しかし、そのレストランや宿泊施設はひどいものだった。
 フレッドは各地を移動しレストランの食事が最悪で、ホテルのベッドはシラミだらけだということを経験していた。当時の西部では新鮮な食品を手に入れることが不可能だった。長距離の輸送に耐えるのは缶詰や保存料を使った保存食品だけだった。冷蔵車はなかったので、新鮮な食肉を食べるのは危険であった。その中でも100マイルごとに設置された駅の食堂が最悪であった。100マイルとは当時の蒸気機関車の燃料と水の供給は100マイルごとに必要で定められたのだった。駅の食堂はお粗末で少量であるだけでなく、調理に時間がかかるので、乗客が食べるに十分な時間を与えなかった。停車時間は30分と決められているが調理に時間がかかるので、料理がテーブルに揃った時には列車発車のアナウンスがあり、乗客は食べきれずに席を立たなければならなかった。そして、残った料理は再び保温庫に保存され次の顧客に出されるのが普通だった。停車場の食堂を利用できなかった乗客はプラットホームや列車の通路を手押しカートを押して歩いてくる売り子(ブッチャーズbutchers肉屋と呼ばれていた)から貧弱だが法外な値段のサンドイッチや萎びたフルーツを買わなければならなかった。
 
フレッドはそんなひどい鉄道旅行の食事を改善すれば成功すると確信していた。実際に彼がビジネスで鉄道をよく利用していた際に利用して感心していたホテルがある。それはペンシルバニア鉄道沿いのアルトウーナAltoonaにあるローガンハウスホテルLogan House Hotelと言う伝説的な素晴らしいホテル・レストランであった。そのホテルはニューヨークの高級レストランデルモニコのような料理とサービスを実践していたのだ。フレッドは米国の鉄道沿いレストランで最も高い評価を受けていると言う記事や写真、メニューの情報を目にしていた。
 また、フレッドが販売していた定期船のフォード船長は定期船の乗客のために初めて素晴らしい船内レストランを設置し、食事とともにワインやダンスを楽しめるようにしていたのを経験もしていた。その夕食は60種類の料理をそろえていた。主な料理を上げると、ポートワインで味付けして焼き上げた熊肉、焼いた川カマスにオイスターソース、牛と野牛のタン、シェリーワインソースで味付けしたカモシカのステーキ、詰め物をした子牛の頭、マデラソースで味付けしたフィレステーキ、ウサギのポットパイ、焼いた鶉、チキンサラダ、などだ。食後のデザートは英国風プラムプディングEnglish Plum Pudding with white sauce、モモのメレンゲMeringues with peaches,バニラバーボンvanilla bonbons,クランベリータルトcranverry tartlets,アップルパイ apple pie,山盛りのマカロンpyramids of macaroonsなど24種類以上揃えていた。船旅の間の光景やサービスや娯楽なども料理の負けないぐらい素晴らしいもので、評判になっていたのだった。 
 
鉄道沿いのひどいサービスと、フレッドの経験した素晴らしいサービスを提供するレストランや定期船の経験を踏まえてビジネスチャンスを探し始めた。
 そこで、チケット販売の仕事をしながらレーベンワースでプランターズ・ホテルPlanters Houseというホテルを経営していたカーネルジャスパーColonel Jasperと手を組んで、ハーベイ&ライスHarvey & Riceと言う会社を設立し、ひどい食事を提供していたカンサスパシフィックKansas Pacific鉄道沿いに3箇所のレストランを経営し始めた。それらのレストランはレーベンワースからはかなり離れており、一番近い場所でも34マイルも離れていた。その次の店舗は西に400マイル離れている牧場で有名なウオラスWallaceであった。その町ではライスは家畜も飼っていた。3つ目の店舗はそこからさらに100マイル以上の距離がある、デンバーに行く途中の鉱山町のコロラド州ヒューゴHugoであった。
 そんな離れている店舗に対してフレッドは店舗訪問を頻繁に行うなど積極的に関与していたが、店舗のマネージャーに発注業務などの大事な業務を任さざるを得なかった。そのために、列車切符販売の仕事に従事していて信頼できるようになった若い従業員をそのマネージャーの仕事に就けることにした。フレッドにとって、レストランの仕事の経験よりも忠実で、信頼でき、自信を持って仕事が出来る人間のほうが重要だったのだ。レストランの仕事については、経験の深いフレッドは新しい規則とガイドラインを作り教えることにした。レストランにとっても最も重要な仕事は葉巻に対する絶え間ない需要にこたえることであった。当時の西部のカウボーイにとって葉巻は食事より重要だったたからだ。それぞれの店舗が一回に数千本の葉巻を注文するのは当たり前であった。3店舗の一回の発注数の6000本の葉巻の支払い金額は433.5ドル(現在価値で8983ドル)にもなった。マネージャーにとって最も重要な仕事はフレッドに直接葉巻の在庫を報告することであった。
 3軒のレストランの運営を共同で初めてすぐにフレッドもライスも相手が自分の足を引っ張るのではないかと思うようになり、共同経営の難しさに気がついた。また、カンサスパシフィック鉄道との関係も面倒であった。鉄道会社はレストランに供給する食材を無料で配送することに同意していたが、レストラン側が一度運賃を支払って、その金額を請求し、支払いがされると言う面倒くさい手続きが必要であった。そこで、フレッドは他の鉄道会社とのビジネスチャンスを捜し求めるようになった。


以下続く

参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops, Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and Company, Inc. New York

Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America 
Bantam Books

 


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