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月刊厨房 2012年3月号
米国外食産業の歴史とイノベーション 第13回目


第15章 戦争時代

 1930年代の大恐慌を乗り切ったイングラムは1940年代には楽観的な見通しを持っていた。実際に1939年には38,000,000万個以上、1940年には41,040,750個、1941年には50,192,785個、のハンバーガーを年間に販売していた。しかし、大恐慌に続いて第2次世界大戦が勃発してしまった(1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻により開戦)。第2次世界大戦により、労働者が戦場に駆り出され人材不足、食原材料の不足、戦争による世相の変化、等の問題をかかえることになり、レストラン業界の多くは店舗の閉店を迫られるようになった。

1)戦争による労働者不足
 イングラムは1937頃にはヨーロッパに於ける各国の軍事的な緊張状態を把握していたが、米国がヨーロッパの戦線に参入することには反対の立場をとっていた。しかし、戦争が拡大するにつれ米国世論は戦線参入を支持するようになり、1940年には徴兵制度が法制化されてしまった。その世論を見てイングラムも戦争を支持せざるを得なくなった。
 1941年になると徴兵制度は強化され、ホワイトキャッスルの多くの男性従業員、パン工場工員、配達ドライバー、監督、達は兵役につかざるを得なくなった。その結果、ホワイトキャッスルの社内報に兵役に付いているホワイトキャッスル従業員の動向を描く「軍隊でのホワイトキャッスル従業員の活躍(White Castle in the Army)」というコラムが掲載されるようになった。ホワイトキャッスル社は徴兵された従業員は退職ではなく、休職という扱いで、戦場に赴いた従業員たちに社内報を郵送することにした。そして戦地からの手紙をコラムに掲載もしていた。
 1942年には325名の従業員が兵役に付き、1943年6月には700名の男子従業員の内、600名が兵役についていた。徴兵されなかった従業員も給料の良い軍需工場で働くために退職するようになってきた。
 戦争が激化するようになると戦場からの手紙は、兵役に付いている従業員の戦死を知らせる辛いものが増えてきた。愛国心から兵役を望むものが多かったが、身体的な障害から兵役に付けなかったり、家族の生活のために仕事に従事せざるをえない従業員もいた。ホワイトキャッスル社はハンバーガーの仕事は軍需工場で働く従業員の空腹を満たすために必要な職業であり、兵役につくのと同じく重要であると主張していたが、それは米国政府にとって認めることはできない主張であった。
 また、軍需工場が増えるにつれ、兵役についた従業員の替りに採用された新しい従業員は給料の良い軍需工場に転職するようになってきた。1942年には1941年の倍の時給になるという高騰ぶりであった。1〜2年のうちに、大恐慌時代の米国の失業率20%が、失業率0%の時代を迎えるようになってしまった。健康的な白人男性は軍需産業の工場において最高給与を稼げるようになったのだ。自動車産業が多い、デトロイトでは通常の車の替りにジープ、トラック、戦車等を、タイヤメーカーのグッドイヤーは貴重なタイヤを軍用車に、フル生産するようになってきた。その結果、レイノルズ・メタル・カンパニー社(Reynolds Metal Company)は週給40ドル、ミネアポリス・ノーザン・ポンプ社(Minneapolis's Northern Pump)は週給80ドル以上を支払うようになった。
 
それに比べ、ホワイトキャッスル社は、勤務開始直後の新人の時給は時間あたり25セント、熟練した従業員の最も高い賃金で24ドル(週60時間労働)に過ぎず、従業員はどんどん軍需産業へ転職するようになってしまった。軍需産業企業は従業員を集めるため、ホワイトキャッスルの店舗の近所まで来て、募集をかけるようにもなった。また、徴兵作業にあたる役所は若い人に軍需産業への貢献を促すようにもなり、従業員の転職に拍車をかけた。
 ホワイトキャッスル社は労働者不足に対応するために、従来の比較的成熟した大人を採用する規則を変更し、年齢制限を18歳、次には16歳まで下げることにした。法的に16歳以下も働ける地域があれば、16歳以下の従業員も採用するようになった。イングラムは会社発足当時から、従業員を採用する際には、能力が高く、正直で、倫理的な従業員を採用すると厳しい基準を設けていた。面接では快活で健康的、ハキハキとした態度の人を採用した。採用後は清潔で、丁寧なサービスをキビキビと顧客にできるように厳しい訓練を課した。この厳しい基準を満たさない従業員は直ちに解雇するようにした。
しかし、1942年の時点での人不足では店舗の運営が出来ず、採用基準を大幅に緩和せざるを得ず、その年の新聞広告では「若い人で、経験は不要、安定した仕事と給与を保証する」と訴えざるを得なかった。この人不足の状態ではホワイトキャッスルの経営幹部はどんな人でも応募に来たら採用するようになった。その結果、モチベーションと能力の低い従業員で店舗を運営するようになってしまった。
新しい従業員の多くは、だらしがなく、生産性が低く、無断欠勤も多く、店舗の生産性と利益率は大幅な低下をした。それだけでなく、店舗の資材を盗んだり、色々な犯罪を働く従業員もいる悲惨な状態となった。また、妥協をして採用した新しい従業員は連絡もせずにお店に来なくなるという、定着性の問題も抱えていた。
インディアナポリスの店舗では家で少年が年齢を偽り、お店の売上や従業員の金を盗むという事件も発生した。デトロイトの店舗では仕事が終わる前に、売上金を持ち逃げする事件も発生した。このような従業員の犯罪は店舗に従業員が一人しかいないような人手不足の状態では防ぐことも出来なかった。さらに、従業員が無料でハンバーガーなどを友人に提供するということも増えるようになった。

盗難の問題以外に、従業員の暴力も発生するようになった。1942年の初頭、シカゴの店舗で従業員2名が上司の地区部長を鉄パイプで殴り、店舗をめちゃめちゃに壊すという事件を引き起こした。同じ年にシンシナティの従業員が他地区のホワイトキャッスル店舗に強盗に入るという事件を引き起こした。ニューヨークでは従業員が殺人罪で逮捕されたり、食品スーパーに強盗に入り、刑に服すという事件も発生した。
このような悲惨な人手不足はホワイトキャッスルだけではなく、他の産業、農業から自動車産業に至るあらゆる産業で深刻な問題だった。給与が高い重工業の工場ですら従業員の確保に困るようになり、米国中のあらゆる州から列車で従業員をかき集めていた。南部で綿の採集に当たっていた黒人や南部テネシー州の白人まで、あらゆる地方の男性労働者を北部の工業地帯に集めるようになっていた。
 しかし、賃金の低いレストラン産業では男性労働者を集めることは不可能であった。そこで、男性の労働者に代わる労働者を考えざるを得なくなった。1940年代の半ばには従来の労働者は払底していたので、ホワイトキャッスルは女性を採用することを検討せざるを得なくなった。米国で女性労働者を採用するのはこれが始めてではなく、第1次世界大戦時にも数百万人の女性労働者を採用し、従来は男性が働いていた職場で仕事に従事させていた。その経験から、日本軍が真珠湾攻撃を仕掛けた直後から、米国産業界は女性労働者を積極的に採用するようになった。第1次世界大戦時よりも従軍する男性が増え、女性労働者が働く職種は大幅に増加し、従来は典型的な男性労働者の職場であった、鉄工所や造船所等の重作業にも就業するようになった。

イングラムは創業当時から、断固として女性労働者を採用しない方針であった。ホワイトキャッスルだけでなく、ハンバーガースタンドの従業員は男性が一般的であった。しかし、男性労働者が少なくなり、ニューヨーク地域で競合のホワイト・タワーが女性従業員を採用し、その動きは他のレストラン業界にも広がっていった。ホワイトキャッスルの管理職は女性従業員を採用することに積極的ではなかったが、人手不足で店舗の運営ができなくなる状況に追い込まれ、やむなく女性従業員の採用を試みるようになった。イングラムもこの厳しい状況で考え方を変え、周囲や社内に事前告知を一切しないで1942年9月24日にミネアポリス地区で初の女性従業員を採用した。このイングラムが女性従業員を採用するに至った理由は、男性従業員が採用しにくくなったことに加え、顧客層が男性層から女性層に変化をしていったからでもあった。従来の主要顧客は男性中心であったが、1942年には顧客の殆どが女性に変化していったのだった。ホワイトキャッスル社の店舗で男性従業員から女性従業員への変化に要するのは短時間であった。1942年の夏にはハンバーガーを調理して顧客にサービスするのは男性のみであったが、1943年夏には全国のホワイトキャッスル社店舗の従業員はほとんどが女性になっていた。戦争終結時には全てのホワイトキャッスル店舗の従業員は女性であり、その状態は戦争終結後数年間は変わらなかった。この急激な変化はホワイトキャッスル社内に混乱ももたらしていた。最初は女性でもどの年齢層が適しているかわからなかった。そこで最初の新聞広告では「35歳以上の女性を求める」と告知した。しかし、実際に応募にきたのは40歳から60歳の女性であった。採用にあたるマネージャーたちはそのような高齢の女性では店舗の雰囲気に合わないと思い、次の新聞広告では「25歳から35歳の間の女性を求める」と変更した。しかし、その条件では数人の応募者が来ただけであった。25歳から35歳の女性はよりよい条件の仕事が十分にあるし、子供のいる女性は子育てに専念するため外で働くことがなかったのだ。そこで、次からは最低年齢を20歳に下げることにした。これで十分な従業員を確保することができるようになった。

しかし、女性労働者を働かせる上で、女性労働者保護のため法律で働ける職場を規制するという問題があった。1911年3月25日にニューヨークの縫製工場トライアングル・シャーツウエイスト工場(Triangle Shirtwaist factory )で発生した火事により14歳から48歳の女性従業員(多くはユダヤ人やイタリア人の移民)146名が火災により死亡した。死者が多かったのは盗難などや外部からの窃盗を防ぐために非常階段に鍵を掛けていたため、火を逃れようと8階〜10階の作業場から地上に飛び降りて死亡した従業員が多かったからである。その事故により女性従業員の働ける職場や環境に厳しい法制化を行うようになった。最初は安全な作業環境の規制であったが、1930年代に入ると男性労働者に有利になるように女性従業員の労働環境を規制するものになっていった。ニューヨークでは女性労働者を働かせられるのは、日中だけの時間であり、決まった場所に座って働け、食事も一定の時間に規定の品数を供給する、等の環境が必要であった。ホワイトキャッスルのように24時間営業で、調理やサービスなど立ちっぱなしの仕事に不可能な規制であった。そのような厳しい規制は1940年代には殆どの地域で緩和されるようになってきたが、会社や男性従業員の女性に対する偏見が女性労働者の勤務する妨げになっていた。
 色々な障害があったが、戦争による男性従業員の不足という事態を乗り越えるために女性従業員と若年従業員の採用は必要不可欠であり、地方政府は女性労働の規制を緩和するようになった。そして、ホワイトキャッスル社の幹部や社員たちに抵抗はあったが、従業員が不足し、ホワイトキャッスルの店舗が閉店に追い込まれる状態に陥ったため、会社継続のために従うようになった。 
従業員たちは戦争が終わったら従軍していた男子従業員は戻るだろうと期待していたが、戦争後の経済発展の時代を迎え、男子従業員はより給料の良い製造業等に仕事を求めるようになった。そのため、従来のホワイトキャッスルやレストランでは男性従業員が一般的であったが、この戦争時代の女性従業員と若年従業員の採用は戦後も継続することとなり、戦後に発展したフランチャイズシステムを取り入れたファストフード企業等の繁栄の原動力となった。女性従業員や若年層の従業員には健康保険や福利厚生なども不要であったからだ。しかし、ホワイトキャッスル社は女性従業員や若年層の従業員にも手厚い健康保険や福利厚生などを与えていた。

2)戦争による食材の不足
 戦争により人手不足だけではなく、食材も不足するようになった。米国は第2次世界大戦参戦前より、ヨーロッパ戦線を戦っていた英国やソ連等の連合軍に対する食料援助をし、それらの国に数百万トンの食料を送るようになった。さらに第2次世界大戦参戦後は戦場の兵士士気高揚のため、戦場の兵士の1日供給カロリーを国内の米国人の3倍という十分以上の食事を取らせるようにした。その十分な食料を送るために米国国内の食材流通制限や配給制度(Office of Price Administration and Civilian Supply O.P.A)を導入するようになった。米国内の食料品価格は1941年には前年に対して61%上昇するようになった。
 最初に制限された食材は砂糖であった。日本が真珠湾攻撃により戦争参入し、砂糖の主要産地であり、米国に砂糖を供給していたインドネシアとフィリピンが日本に占拠され砂糖の制限をせざるを得なくなった。O.P.Aは直ちに砂糖の供給制度を開始した。
 ホワイトキャッスルは創業当時からハンバーガーとコーヒー、コカ・コーラが主要な商品であったが、コーヒーにつける砂糖を制限せざるを得なくなった。従来は砂糖をカウンターにおき、顧客が好きなだけ使うことができた。しかし、配給制限によりホワイトキャッスルは前年の砂糖使用量の75%しか配給されなくなり、ある地域では砂糖の在庫が払底し、他地域の店舗から緊急に店舗間移動をせざるを得なくなった。

顧客にコーヒーを提供する時には、1カッブに一匙の砂糖を供給し、顧客がもう少しといえばもう一匙だけ提供するという規制を行わざるを得なくなった。従来はカウンターで顧客が好きなだけ砂糖を使えたが、砂糖壺をカウンターの背後の棚において、従業員が厳しく管理するようにした。さらに砂糖の消費量を低下させるため、ホワイトキャッスルは勝利のコーヒー(Victory Coffee)という名称で、ブラックでコーヒーを飲むことを顧客に勧めるようになった。
 砂糖の不足はコーヒーだけでなく、コカ・コーラの供給にも大きな影響を与えた。コカ・コーラの主要原材料は砂糖を使ったシロップであるが、砂糖の供給が制限され、地区によってはコカ・コーラの販売を中止せざるを得なくなった。砂糖を使うパンやパイ類も砂糖の使用量を少なくする工夫も凝らすようになった。
 コーヒーに関しては砂糖の不足だけでなく、コーヒー豆も不足するようになり、地域によっては、薄いコーヒーを提供せざるを得なくなった。ホワイトキャッスル創業時からイングラムは労働者であっても最高のコーヒーを飲むべきだという信念を持ち、常に最高のコーヒー豆のブレンドや機械の改善をしていた。ホワイトキャッスルのコーヒーの基準は水1ガロン(3.785リットル)に対してコーヒー豆9オンス(255.15g)であった。
ミネアポリス地域は比較的濃いコーヒーを提供しており、従来は水1ガロン(3.785リットル)に対してコーヒー豆12オンス(340.2g)であったが、コーヒー豆を7オンス(198.45g)に減少せざるを得なかった。ルイビルの地域では水1/2ガロン(1.89リットル)に対してたった3オンス(85g)という、薄いコーヒーを提供せざるを得なくなった。

このコーヒーを薄めるという対策はホワイトキャッスル店舗の一部の地域であったが、1942年の年間コーヒー豆の配給は前年の65%に制限され、各店は1カップのコーヒーの販売価格を5セントから10セントと価格を倍にせざるを得なくなった。また、顧客に提供するコーヒーカップの容量を従来の3/4に縮小し、顧客はコーヒーのお替りはできないし、持帰りもできないようにした。このコーヒーの味や品質の低下はホワイトキャッスルにとって大打撃であった。顧客は家で飲むコーヒーもなかったのがホワイトキャッスルに来店する大きな動機であったからだ。この当時の家庭でのコーヒーの配給は5週間毎に1ポンド(450g)に制限されていた。このコーヒー豆の不足により1943年の初頭には殆どのレストランはコーヒーを販売できなくなってしまった。
 ホワイトキャッスルもコーヒーの販売ができなくなる危機に陥りそうになり、コーヒー豆の増量剤を考案せざるを得なくなった。そこで、チッコリー(Chicory )や大豆粉(Soy Meal)をコーヒー豆に加えることにした。混入率を6〜8%に抑えることによりあまり味の変化がないようにした。さらなるコーヒー豆の不足に対応するため、コーヒーに似た味の代用の飲み物を研究したが、結局コーヒーに代わるものを発見することは出来なかった。
 その他の食材で不足をしていたのは、ハンバーガーに欠かせないキュウリから作るピックルス、ケチャップだった。1942年11月にはケチャップ製造会社のハインツ(Heinz)はホワイトキャッスルへのケチャップの供給を前年の半分にし、1943年1月には供給はゼロとなってしまった。その後も戦争の間は時々ケチャップが不足することになった。
 その次に不足したのはコーヒーに入れるクリームだった。クリーム不足に対応するためクリームの容器をカウンターから背後の棚にしまい、1カップのコーヒーに入れるクリームは1オンス(29.6cc)に制限した。さらに、シンシナチ(Cinsinnati)の工場ではクリーム100%ではなく、クリーム2に対して牛乳1の割合の、現在でいうハーフ・アンド・ハーフ(half & half)というコーヒークリームを考案した。このハーフ・アンド・ハーフのクリームは米国で標準的なコーヒークリームとなり現在でも多くの米国人に使われている。

さらに深刻であったのは玉葱の不足であった。ホワイトキャッスルのハンバーガーの肉の焼き方はグリルの上に散らしたオニオンの上に肉をおき、蒸し焼きのようにする。オニオンの不足はハンバーガー製造できないことを意味するからだった。戦争が始まると玉葱の価格は高騰し、慌てたO.P.A.は玉葱の価格を制限するようにした。そのため、生産者は玉葱を販売せず、冷凍して価格制限が終わるまで保管するようにしたので、市場からは玉葱が払底したのだった。そこでホワイトキャッスルは生の玉葱から乾燥玉葱を戻して使うようにして危機を乗り越えた。戦争終了後もホワイトキャッスルは乾燥玉葱を継続して使用するようになった。
 食材以外でも不足する資材が出てきた。女性従業員が履く、白の革靴やユニフォームが入手できなくなったのだった。しかし、それらは対策ができたが、食材の配達に必要なトラックが使用するゴム製のタイヤの不足は大問題であった。そのため、戦争の勃発以前にホワイトキャッスル社はゴム製のタイヤを備蓄して対応に当たっていた。
 事前に対策を忘れていたのが、ハンバーガーを包装するダンボール箱であった。不足した包装箱の代わりに、持帰り用の袋にハンバーガーをナプキンで包んで入れるようにして対応した。
 しかし、備蓄できない重要な資材がトラックで使用するガソリンだった。戦争の必需品であり、戦地に輸送する石油タンカー船がドイツの潜水艦に撃沈されるような状態であり、ガソリンの不足は米国に広がった。ホワイトキャッスルのトラックはハンバーガービジネスが必要だと認められていなかったため配給が厳しく制限され、トラックは工場に停めたままにせざるを得なくなった。従業員たちは自らの自家用車を使用したり、市内を走っている市電を使って食材を店舗に配送するという苦労を重ねていた。
 ガソリン不足はホワイトキャッスルの売上に大きな影響を与えた。従来のホワイトキャッスルは市内の工場近所に展開をしていたが、1930年代から車の普及により郊外の道路沿いに店舗展開を行い、車に乗ったまたハンバーガーを注文できるようにしていた。それがガソリンの配給制限により売上が急降下し、店舗によっては閉店をせざるを得なくなった。

3)ハンバーガーの肉がなくなる危機
 色々な資材が不足して苦労していたホワイトキャッスルであったが、今度はハンバーガーに使用する牛肉の不足という致命的な事態を迎えることになった。戦争前から牛肉の配給制度が噂されていたが、実際に牛肉の配給制度が始まったのは戦争開始しばらくしてからだった。政府は最初は国民に牛肉消費量を削減するように訴えることから開始した。しかし、殆どの国民は協力的でなく、1943年3月29日から政府は配給制度を開始することにした。さらに、食肉なしの日(Meatless Days)を設定し、その日にはレストランで食肉を提供しないようにさせた。牛肉不足に対応してホワイトキャッスルは牛肉の配送方法、ロスのない調理前の準備、店舗での提供方法を見なおしてハンバーガー完成品の廃棄を少なくする、等の対策を取ることにした。ホワイトキャッスルは年月をかけて集中購買システムを構築していたが、食材不足に対応するために各地の店舗であらゆる手段を使って食材調達させるように変更した。店舗によっては闇市で購入したり、あまりよくない部位の牛肉を調達せざるを得ない場合もあった。
 ハンバーガーの調理方法も変更した。従来はハンバーガーのミートパティをグリドルに並べ、片面が焼けたらスパチュラでひっくり返し、もう片方を焼いていた。そのスパチュラでひっくり返す時にミートパティを破損したり、肉片がグリドルについてしまうロスがあった。そこで、イングラムはニューヨーク・スタイル(New York Style)と銘打った新しい調理法を開発した。玉葱をグリドル一面にばら撒き、その玉葱の上にミートパティをおき、そのミートパティの上にバンズを乗せて焼き上げ、途中でパティをひっくり返すことをしないようにした。玉葱がグリドルで温められ、蒸気を出すので、その蒸気でむらなく調理をする。ミートパティが加熱されることにより出る肉汁はバンズが吸い取り、ミートパティの味全てを食べられるようにしたのだ。
 また、戦争末期には密かにミートパティのサイズを縮小したり、価格を倍にするなどの対策を取らざるを得なくなった。
 また、牛肉以外の食材をハンバーガーに挟むことやハンバーガーに代わる料理を検討した。グリル・チーズサンドイッチ、焼いた豆(Baked Beans)、魚、ホットドック、スパテティ、チョップ・ソイ(chop suey 中華の肉野菜炒め)、玉子焼き、コールスロー(キャベツのサラダ)、チリ(豆とひき肉の煮物)、卵サラダ、ボロニヤソーセージとレタス・トマトのサンドイッチ、フレンチフライ、等だ。

最初に販売したのは焼いた豆だった。顧客の味に対する評価は悪くはなかったし、原価も低いので利益上は貢献した。しかし、提供する皿にこびりつき、皿洗い機も詰まってしまうという問題を抱えた。そこで3.5オンス(100.36cc)のガラス・ボウルで提供することにして対応した。問題は顧客が味付けに不足がちなケチャップを使用することであった。しかし、ホワイトキャッスルはバンズを焼く工場に依頼して豆を焼いて店舗に供給し、戦争の間販売を続けた。
 グリル・チーズサンドイッチで使用するチーズは戦争中も十分な量を確保できたし、調理も簡単であったので、戦争中は継続して販売した。
 スパゲッティは牛肉が確保できない時に販売することにした。価格は10セントで焼いた豆を提供するガラス・ボウルに入れて提供した。
 白身の鱈を使った魚のサンドイッチは人気がなく失敗に終わった。ホットドックと玉子焼きサンドは成功した。ホットドックは他のチェーンでも販売しており、人気がある商品となった。玉子焼きは現在のマクドナルドの朝食・エッグ・マック・マフィンのように鉄リングに入れて、グリドルで玉子を焼いてバンズに挟む方法で提供した。牛肉が不足している時には牛肉ハンバーガーを昼と夜に限定し、朝や深夜等の時間帯は玉子焼サンドイッチを5セント販売することにした。人気はあったのだが、当時の玉子の価格は1ダースで50セントであったので、販売すればするほど赤字であるという問題を抱えた。

それらの代替商品の他にホワイトキャッスルが開発したのは牛肉のパティの代替え品であった。イーストと野菜ジュース、小麦粉とピーナツと塩、等から製造したパティ(John Harvey Kellogg's Battle Creek Foods社製造)。ピーナツとトウモロコシと塩と調味料から製造したヌーメツ(Numete、Columbus Neighbor Special Foods社製造)、大豆とトマトジュースとイーストと玉葱とピーナツから製造したベジロナ(Vegelona 、Loma Linda Foods社製造)、大豆とトマトジュースとイーストから製造したプロティーナ(Proteena、Loma Linda Foods社製造)等であった。それらの牛肉に代替えするパティの味は満足できるものではなく、大豆を使った牛肉に混合して増量する食材、大豆粉(Soy Flower、Central Soya Company製造)の可能性がある程度であった。だが、ホワイトキャッスルは大豆粉を使用することはなかった。
 これらのハンバーガー代替え商品は終戦後の配給制度が終了すると人気がなくなり、販売をすることはなかったが、その中で戦後も生き残る商品がフレンチフライだった。アイダホの大きなポテトを使用するフレンチフライは、店舗のフライヤーの温度管理が難しく、危険であったが、味が良いので人気となり終戦後も定番メニューに生き残った。
 このホワイトキャッスルの苦労の背景にある食肉不足を見てみると、実際のところは食肉は不足していなかったことが後に判明する。戦争中の食肉生産や消費財の生産は戦争前よりも遥かに多かったのであるが、それらの食材や消費財を戦地で戦う兵士に過剰に送っていたので国内での不足が発生したのであった。米国内の一般的な消費者は一人年間に食肉125ポンド(56.25kg)を配給されていたが、戦地の兵士は一人年間360ポンド(156.6kg)と3倍の食肉を配給されていたのだった。

4)ホワイトキャッスルの業績
 ホワイトキャッスルは販売する商品が限定され、地区によっては営業できない店が続出し、戦争前に比べ4年後の終戦時には何と半分の店舗数に縮小していた。
 1935年にはホワイトキャッスルは16市に130店舗を展開していたが、終戦時には12市87店舗になっていた。


 以下続く

参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops, Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and Company, Inc. New York

Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America Bantam Books

Tennyson、Jeffrey(1993) Hamburger Heaven: The Illustrated History of the Hamburger Hyperion Publishers

Hogan, David Gerard(1997)Selling ' em by the Sack New York University Press

 


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